前回、深層心である末那識(まなしき)には四つの煩悩が常に存在し、その第一の煩悩である「我癡(がち)」というのは、すべては“無常“であり、“固定的なもの、それだけで成り立つもの“はないという実相を「知らない」という煩悩のことであるというお話しをしました。
その「我癡」と呼ばれる煩悩があることで、次に「我見(がけん)」という煩悩が生まれてしまいます。
「我見」は、“私”というものがいるという認識をもち、自分に執着していることをいいます。
固定的なもの、それだけで成り立つものはない、という“実相”を知らないことで、私という存在も独立してそれ自体で存在するもののように思ってしまうということですね。
仏教では、すべては縁起で成り立っていると考えられています。
例えば私たちの肉体や物質も元をたどれば宇宙の塵が寄り集まってできているものですね。
また、両親や家系の遺伝子という特性を受け継ぎ、生まれた環境、出会う人々などにより多様な影響を毎瞬受けながら“私“はその瞬間、存在しているわけですが、決して、常に変わらない独立した存在としての”私“がいるということではない、という理解ですね。
固定した“私”という認識があると、その私に執着が生まれ、何かを失うということに対して恐れることになってしまいます。
自分に執着がなければ、死についても恐れがなくなるでしょうが、死への恐れというものは、人間にとっても深く根ざした恐れではないかと思います。
仏教ではその究極の恐れも法に従った理性的な思考と、ヨーガ(瑜伽)などの瞑想による洞察をもって、手放していくということをしていくわけですね。
”私”というものにとらわれると、例えば自己否定感が強い方の場合は、不当に自分を低いレベルの存在におとしめてしまうということになるでしょう。
また反対に、自我意識が強い方の場合は、縁起の法則により、一瞬一瞬新たな”私“が生まれているということを理解することが難しいかもしれません。
”私“は「固定してそれ自体で存在するものではない」のだということを理解することは、ある意味自由が得られる考え方ではないかと思います。
”私“という固定した自分への執着があると、自分の容貌、才能、社会的地位などによりこれが自分だと定義し、それらによって自分を評価するということになるわけですが、その固定した考え方は窮屈に感じられないでしょうか。
存在が固定していないということは、何にでもなれるとも言えると思います。
そしてもともとこの肉体も宇宙の塵からできていると考えると、死んだ後も、また宇宙に還っていくという循環が観えてくると思います。
仏教は偏らない観方というものを教えてくれていると思います。
カルマには今生においての原因と結果というものと、過去生にまでまたがって影響している宇宙のカルマというものがあります。
カルマというものは例えば過去生で人を苦しめたから、今生では自分が苦しまなければならない、ということではないんですね。
手放す準備のできたカルマを解放していきます☆