みなさんこんばんは
ダライラマ法王が11月14日に高野山で不動明王の許可灌頂(こかかんじょう)を多くの参加者に授けられました。
わたしも参加しましたが、そもそも高野山に行くことになったのは、高次元の存在である“アシュタール(Ashtar)”のグループセッションに参加したのがきっかけでした。
アシュタールが参加者一人一人にガイドスピリットのメッセージを伝えてくれました。
私については「グレートブッダがあなたに、ダライラマに会いに行ってほしい」と言っていると教えてくださいました。
そこで調べるともうすぐ来日されるというタイミングでしたので、14日の高野山での灌頂(かんじょう)と17日の横浜での講演に申し込みました。
ダライラマ法王による不動明王の許可灌頂は高野山大学の講堂で行われました。
これからダライラマ法王のメッセージをお伝えしたいと思いますが、私がメモに書きとめておくことのできたものですので、箇条書き的ですがご容赦ください。
『知恵を自分の心の中に高めていき、その知恵を完成させることができると釈尊は仰った。すべてが智恵に基づいてなされなければならない。
このように信心のみではいけないと釈尊が説かれているわけだが、インドにはそれ以前もたくさんの宗教があった。神の宗教がたくさんあった。創造主を信じる宗教は信心が強固。一点集中する。
この世の創造主を信じる宗教ももちろん多くの人に役立っている。これからも役立つことが分かっている。
仏教がそういった宗教と違うのは、自ら知恵を育んでいかなければならない。』
『釈尊が初転法輪(しょてんぽうりん)で説かれたのが、すべての教えの土台。
四聖諦(ししょうたい)』
『知恵を高めていかなければならないというところが、私たち仏教徒の特徴。
日本人も教えを実践していってほしい。
関心を持つならば、個々の心に大きく寄与する。
チベット僧も以前は儀式中心だったが、亡命後、寺院を学習センターとして機能するようにと話している。
儀式だけなら仏教も長続きはしないだろう。
教えを育むことが大切。仏教が何百年も続いていくために』
『苦しみが存在する。それには原因がある。もっと大きい障りは怒り。
それらを断滅する。滅諦(めったい)の境地。
四聖諦(ししょうたい)の中で大事なのは、偏在的な苦しみを認めて脱するよう修行すること。
無知の心が原因。少しづつ滅していくべき心のけがれ。
無知を滅する智恵。煩悩を完璧に滅した時、解脱して涅槃へ。
戒・定・恵(かい・じょう・え)の三学修行』
『この苦しみから一切のものが解放されることを望むことが大切。
苦しみの因ばかり作って、幸せの因を作っていない。
苦しみというのはすべての生きとし生けるものに存在し、すべてのものがそれを離れたいと思っている。
荒いレベルの煩悩や微細なレベルの煩悩まで断滅(だんめつ)しなければならない』
『一切衆生に対する慈悲の心が大切。
このような煩悩を無くせると分かったら、微細なレベルの煩悩は習気(じっけ)というが、それも滅することができる。
自分だけでなく人々のこともより重要だと考えていく。
人々一切を慈しむことで、自分が満たされる。
少なくとも悪いことはしないと誓約してほしい。
利他の心は自分の悟りの境地へ導く。
自分の幸せを願わなくとも、衆生の幸せを願うことで、自分も満足する』
『“空”に瞑想し、その理解を完成することが必要。
解脱の境地が私たちの目的!
智恵が備わり恵まれた人生を選ぶならば、毎日実践をしていくことが大切。
障りを滅することが必要とされている』
『私に悪いことが起きませんように、というのは良い動機ではない。
他者、一切衆生のすべての幸せを願うことが大切。
そのスケールの大きさが“大乗(だいじょう)”。
狭い心に基づいた心ではなく、大きな心の動機を持った人を大乗仏教と呼んでいる』
『“一切智(いっさいち)の境地に至る“というのが私たちの目的。
以前弟子の1人が一切智に至るのが目的ではないと言ったので、この者は愚か者ではないかと思った』
ダライラマ法王のメッセージに、とても感銘を受けました(*^_^*)
「戒・定・慧」とは、戒律・禅定・智慧のことです。
悪いことをせずに善行に励み、心を穏やかにして、世界の真実の姿を観る、ということになるかと思います。
「四聖諦(ししょうたい)」とは、苦・集・滅・道(く・しゅう・めつ・どう)の教えのことですね。
原因があって(集)、苦しみがある(苦)。
その苦しみを滅することができる(滅)。
その方法は“八正道“である(道)。
という教えですが、この世界の見方と悟りへの実践方法を説いているわけですね。
「一切智」とは、一切のものを完全に知る仏の智慧という意味ですが、その境地を私たちは目指しているわけですね。
高齢であるにも関わらず世界中を飛び回って智慧を分かち合っておられる姿を見ると、本当に頭が下がります。
また直接お姿を拝見したことで、お書きになった本を読む際も、その教えがずっと身近に感じられるようになりました。
次は不動明王の許可灌頂(こかかんじょう)についてお話ししたいと思います。