みなさんこんばんは
今回は魂のあり方についてのソクラテスの議論を、ご紹介していきたいと思います。
【 『パイドン』(プラトン著 岩田靖夫訳 岩波文庫)参考 】
ソクラテスは言います。もしも、魂が肉体を避け、自分自身へと集中していたならば、魂は肉体的な要素を少しも持つことはない、と。
そして肉体を避け自分自身へと集中することこそが、正しく哲学することであり、それは真実に平然と死ぬことを練習することに他ならない、と言います。(同書P79)
これに反して魂が汚れたまま浄められずに肉体から解放されることがあり、そういう魂は、肉体的な姿をしたもの、人が触ったり、見たり、飲んだり、食べたり、性の快楽のために用いたりするもの、こういったものを真実と思ってしまう、と言います。
これは絶えず肉体と共にあるために肉体に習熟してしまったためである、とも。
そしてこういう魂は肉眼には見えないが、知性によってとらえられ、また哲学によって把握されるようなものを憎み、恐れ、避けるように習慣づけられるとも言っています。
そしてソクラテスは、この肉体的なものは“重荷”である、と言います。
このような魂は、肉体的なものの欲望によって、再び肉体の中に巻き込まれるまで、さまよい続け、当然のごとく彼らは、生前自分たちが実践してきたような性格の中へ、入り込むのである、ということを弟子に伝えます。(P80~82)
哲学は自分自身へと集中する練習であり、そうすることはつまり、肉体にとらわれることなく、平然と死ぬことを練習しているようなものであるということになりますね。
肉体にとらわれていると、平然と死ぬことも難しいでしょう。どうしても肉体を去ることが怖くなってしまいますからね。
ここで誤解して頂きたくないのですが、ソクラテスは自殺に関しては勧めていませんし、肯定もしていません。
ソクラテスは言っています。われわれ人間はある牢獄の中にいて、そこから自分自身を解放して逃げ出してはならないのだ、と。
神々は、われわれ人間を配慮するものであり、人間は神々の所有物の1つである。
そのため、何らかの必然を神が送るまでは、自分自身を殺してはいけない、ということなんですね。(P24)
それでは、どのような魂があの世で歓迎されるのでしょうか?
次回をどうぞお楽しみに(^