『人間嫌いと言論嫌いの似ているところ』

スターエンジェル

2016年03月06日 09:44



みなさんおはようございます(^_^)
何だか急に暖かくなってきましたが、いかがお過ごしでしょうか。

さて、今日は『パイドン』(プラトン著・岩田靖夫訳・岩波書店)の中から人間嫌いと言論嫌いについてご紹介したいと思います。

古代ギリシャの哲学者ソクラテスが人間嫌いについて語っています。
人が人間嫌いになるのは、ある人を盲目的に信じ、信頼できる人物だと考えた後に、しばらく経ってからその人の性格が悪く信頼できないことに気付くからだと。
そして他の人との間においてもまた同じような体験をして、それを繰り返すと、とりわけ最も親しいと考えていた人との間でそのような仕打ちを受けると遂には怒りが爆発してすべての人を憎むようになり、健全な人間などいないと考えるようになるといいます。
両親や兄弟、子供、パートナー、親友や教師、職場の上司・同僚・部下、聖職者etc…..人間でつまずくということがありますね。


しかしソクラテスは言います。(同書P103~)
人間嫌いになるのは、人間的な事柄についての心得(こころえ)もなしに人々と付き合おうとしたためだと。
もしも心得をもって人々と付き合ったのなら、非常な善人も非常な悪人も共にごく少数で、大部分の人はその中間にある、ということを考えられただろうと。


私たちは善悪の両端を意識してしまいがちですが、最高の善と最低の悪だけが存在するのではなく、むしろその中間の善も悪も混在しているグラデーションのような領域こそが多くの場合当てはまるということでしょう。
そうすると、完全に正しい人も、完全に間違った人もいないと考える方が適切だということになりますね。
完全に正しいと信じていた相手にちょっと違う面が見えてくることでショックを受けるわけですから、人を完全に正しいと盲信することは危険をはらんでいると言えるでしょう。




そこでソクラテスは言論嫌いについても語ります。
言論嫌いもある面で人間嫌いに似ていると言います。
それはある言論を真実であると信じ込み、しかしその後それを偽りであると思うような時に言論嫌いは起こります。
そういう経験が繰り返されるにつれて言論嫌いは人間嫌いと似てくるわけですね。
この言論嫌いも言論についての心得を持っていなかったために起きるものだと言います。
その心得とは、私たちは言論についての充分な知識を持っていないという考え方のことなんですね。
先ずはこの考えを受け容れるようにしていくことが大切ということですね。
そして健全な言論、真理や知識であるように努力していかなければならないということです。
それは知を愛するという哲学の意味そのものでもあるでしょう。


ソクラテスは弟子たちにこう言っています。(同書P107)
「もしも僕がなにか真実を語っていると思われるならば、同意してくれたまえ。もしそう思われなければ、あらゆる議論を用いて、それに抵抗してくれたまえ」

ソクラテスほどの哲学者がこのような事を言うのもなんだか謙遜しているように思えますが、この言葉は本気で語られた言葉であろうと思います。
なぜならソクラテスが求めるのは、自分の評判や名誉ではなくて、真理が探究されることでしょうから。
弟子にも真理を探究する姿勢を持ち続けてほしいというのが、知を愛するソクラテスが最も望むことだろうと思います。
そのためにどのような信頼できる存在また権威ある存在から出た言葉であっても、鵜呑み(うのみ)にしてはいけないという警告を弟子たちにしているわけですね。
自分で本当にそれは真実かどうか考えてみること、感じてみることが大切だということでしょう。


人間嫌いにも言論嫌いにも「心得」の有無が関わっていますね。
今日も最後まで読んでくださいまして、ありがとうございました(*^_^*)


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