『 魂が蒙る(こうむる)究極の悪とは?』

スターエンジェル

2016年02月11日 18:44


こんばんは(^.^)
今日の熊本は温かい「建国記念の日」となりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか?

さて、例のごとく『パイドン』(プラトン著 岩田靖夫訳 岩波文庫)を参考にしながら古代ギリシャの叡智をお伝えしたいと思います☆

ソクラテスは本当の哲学者の魂は快楽や、欲望や、苦痛、恐怖などをできる限り抑制するのだと弟子のケベスに語ります。
そしてなぜそれらを抑制するかという理由について彼はこう語ります。

(同書P85~86)
ソクラテス「人間があまりに強烈な快楽や、恐怖や、苦痛や、欲望を味わうと、それらの激情から、ただ単に、身体を駄目にしてしまうとか、欲望のために財産を台無しにしてしまうとか、そんな程度の悪を蒙るばかりではなくて、あらゆる悪のうちで最大にして究極の悪を蒙るのであり、しかも人々はそのことを考えてもみないのである」

ケベス「その最大にして究極の悪とはなんでしょうか、ソクラテス」

ソクラテス「すべての人の魂は、なにか激しい快楽や苦痛を感じると、それと同時に、もっともそういうものに感覚を与えるものこそ、もっとも明白でもっとも真実である―――と思い込まされる、ということだ。そういう思い込みを与えるものは、とりわけ、目に見えるものである。このような状態において魂はもっとも肉体によってしばりつけられるのではないだろうか」

ケベス「どうしてですか?」

ソクラテス「その訳はこうだ。どんな快楽や苦痛でもなにか釘のようなものを持っていて、魂を肉体に釘付けにして、ピンで留めてしまい、魂を肉体の性質を帯びたものにして、その結果、魂は、肉体が肯定することならなんでも真実である、と思い込むようになる。」


ソクラテスは、目に見えるものによって、それが真実だと思い込んでしまうことが“究極の悪”だと言っているわけですね。

続けて彼はこう語ります。
もし、魂が情念から解放された平安を獲得し、理性的思考に従い、真なるもの、神的なものを見つめ、生きていくならば...そして死んだ後には、神的なもののもとに到達し、人間的なもろもろの悪から解放される、考えるならば...魂がそのように育まれていれば何も恐れることはない、と。

地上の世界の快楽や、欲望や、苦痛、恐怖にとらわれないことで、魂が平安を獲得し、神的なものと触れることができ、死ぬことの恐れもなくなるということでしょう。

この話からはお釈迦様が得られた“解脱“を思い起こします。
お釈迦様は35歳の時にブッダガヤの菩提樹(ボダイジュ)の木の下で悟りをひらかれ、解脱されたと言われています。
解脱とは俗世間の煩悩(ぼんのう)から離れ、安らかで自由な境地を得ることをいいます。
まさにソクラテスが語っていることと同じことではないでしょうか。

お釈迦様がお生まれになった年については、紀元前600年代から400年代まで諸説ありますが、もし400年代にお生まれになっていたとしたら、ギリシャのソクラテスと同じ時代に生きていたことになります。
同じ時代の西洋と東洋に偉大な哲人が存在して、共に魂の解放を唱えていたとしたら、こんなに素晴らしいことはありません(^.^)/
そして、魂が煩悩から自由になることは、非常に重要なことなのだ、と思わざるをえません。


今日も最後まで読んでくださいまして、ありがとうございましたm(__)m
皆様に天使とマスターと共に祝福を贈ります☆




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