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Posted by おてもやん at
『パイドン』(プラトン著 岩田靖夫訳 岩波文庫)より霊魂の不滅の証明についてのギリシャの哲学者ソクラテスの考えをご紹介したいと思います。

尚、この作品はソクラテスが服毒による刑死を控え、獄中で弟子たち(シミアスとケベス)と哲学的対話をするものです。






《P52~》

ソクラテス  それでは、今度は、生と死に関する二つの生成過程についてだが、そのうちの一方は明白ではないかね。 なぜなら、死ぬということは多分明白だから。 そうではないか



ケベス    はい、まったくです



ソクラテス  では、どうしたものだろうか。死ぬということに対して反対の生成過程を補わずに、この点に関して自然は不均衡だとしておこうか。 それとも、死ぬことに対して、われわれはなにか反対の生成過程を補うべきだろうか



ケベス    どうしても補うべきです



ソクラテス  どんな生成過程を、か



ケベス    生きかえることです



ソクラテス  それなら、生きかえるということがあるからには、それは死者から生者への生成過程であり、それが生きかえりなのだろう



ケベス    まったく、そうです



ソクラテス  それでは、この点からも、われわれは同意したのだ。死者が生者から生ずるのと同じように、生者は死者から生ずるのである、と。

ところで、こういう事情であれば、それは、死者たちの魂がどこかに存在していて、そこから再び生まれてくるはずだ、ということの充分な証明になる、と先ほどわれわれは考えたのだね



ケベス    すでに同意されたことからすれば、ソクラテス、この結論は必然である、と私には思われます



ソクラテス  さあ、ケベス、われわれが同意したのは間違ってはいなかった、と僕には思われるのだが、その点を次のようにして見てみたまえ。

もしも、一方の生成が、ちょうど円環をなしてめぐるように、他方の生成をつねに補うのではなく、かえって、生成が一方からその正反対のものへのみ向かうなにか直線的なものであって、再び元へ戻ることもなければ向きを変えることもないとすれば、万物は最後には同じ形をもち、同じ状態となって、生成することを止めてしまうだろう、わかるかね



ケベス    どういう意味ですか



ソクラテス  なにも難しいことではない。僕の言っていることを理解するのは。 たとえば、もしも一方に眠りに入ることがあるのに、他方に眠りの状態から目覚めるという逆の過程が生じて対応していないとすれば、どうか。君にもわかるだろう。

【中略】

同じようにして、親愛なるケベス、もしも生を受けたものがすべて死んでゆき、ひとたび死んだならば、死者はその状態に留まって再び生き返らないとするならば、最後には万物が死んで、生きているものはなにもない、ということになるのは大いなる必然ではないか。

というのは、もしも生者が死者とは別のものから生じ、生者は死ぬとすれば、万物は消費し尽くされて死にいたることを、なにか防ぐ手段があるだろうか



ケベス    ソクラテス、なに一つあるとは思えません。 あなたの言っていることはまったく真実だと思います



ソクラテス  そうだ、ケベス、僕が思うには、なににもましてその通りなのだ。そして、われわれは欺かれて正にこれらのことに同意しているのではない。生き返るということも、死者たちの生者が死者から生まれるということも、死者たちの魂が存在するということも、本当に有ることなのだ









☆★☆★☆







たしかに死者と生者が循環していなかったら、死者が増えていくに従って生者は減っていき、ついには誰もいなくなるという状態になりそうですね。

死者と生者の関係については、私は夜空のお月さんが私たちに教えてくれているように思います。

つまり、月は満月の時は美しく輝き最も大きくなっていますが、次第に欠けていき、新月では姿が見えなくなりますね。

しかしそれで消えてしまったのではなく、また少しずつ姿を大きくしていきます。

月を魂と考えると死者と生者が新月と満月のように思えます。

新月で月の姿が見えなくとも、月自体がなくなってしまうわけではありませんね。

それと同じように、人間の肉体は死という状態になっても、魂は消えてしまわずに存在していて、その魂がまた新たな肉体に宿って生者として地上に現れるということだろうと思います。

魂が存在し続けているからこそ、何度も生まれ変わってはさまざまな経験を積むことができますね☆



次回は「想起説」のお話が出てきます♪ お楽しみに(^_-)-☆

  


Posted by スターエンジェル at 22:36Comments(0)『パイドン』☆ソクラテスとの対話
『パイドン』(プラトン著 岩田靖夫訳 岩波文庫)より霊魂の不滅の証明についてのギリシャのソクラテスの考えをご紹介したいと思います。

尚、この作品はソクラテスが服毒による刑死を控え、獄中で弟子たち(シミアスとケベス)と哲学的対話をするものです。







《P44~》

ケベス    ソクラテス、他の事は見事に語られたと私には思われます。しかし、魂について語られたことは人々に多くの疑念を呼び起こすものです。かれらはこう恐れているのです。魂は肉体から分離されると、もはやどこにも存在しないのではないか。

それは、人が死んだその日に、肉体から離されると、もはやどこにも存在しないのではないか。 【中略】

しかし、人間が死んでも、魂は存続しなんらかの力と知恵を持ちつづける、ということを認めるには、恐らく、少なからぬ説得と証明が必要となるのです。



ソクラテス  ケベス、君の言うことは本当だ。では、どうしようか。よければ、これらのことについて話し合いをしようか。これらのことがそうあるのが当然なのか、それともそうではないのか、を



《P47~》

ソクラテス  さて、この問題を何か次のように考察してみようではないか。死んだ人たちの魂はハデスに存在するのか、それとも、存在しないのか、と。

ところで、これについてはなにか大昔からの教説があるのを、われわれは覚えている。その教説によると、魂はこの世からあの世へと到り、そこに存在し、再びあの世から到来して、死者たちから生まれる、というのだ。

そこで、もしこれが真実だとすれば、すなわち、生者は死者から再び生まれるのだとすれば、われわれの魂はあの世に存在する他はないではないか。【後略】



ケベス    その通りです



ソクラテス  では、君がもっと容易に理解しようと望むならば、このことを単に人間についてだけではなくて、すべての動物や植物についてもまた考察しなければならない。

そして、全体的に言って、およそ生成するすべてのものについて、すべてはこのように生成するのかどうかを見てみようではないか。

すなわち、なにか反対のものがある限りのものにおいては―――たとえば、美が醜に反対であり、正が不正に反対であり、その他無数のものがそのような関係にあるのだが―――そういうものにおいては、その一方は反対である他方からしか生じえないのだと、ということを。

【中略】

たとえば、なにかがより大きくなる時には、必ず、以前により小さな状態にあって、そこから後により大きくなるのではないか



ケベス    そうです



ソクラテス  ではまた、それがより小さくなるならば、以前のより大きな状態から後により小さくなるだろう



ケベス    その通りです



ソクラテス  それではまた、分離すると結合するとか、冷たくなると熱くなるとか、すべてこういうものは、たとえある場合にはわれわれは言葉を用いないとしても、たしかに現実においてはあらゆるところで必ず次のような事情にあるのではないか。

つまり、それらの反対物は相互から生成し、それぞれが互いに他方へ生成する、ということだ



ケベス    まったくその通りです



ソクラテス  それではどうだ。生きていることに対してなにか反対のものがあるかね。ちょうど目覚めていることに対して眠っていることが反対であるように



ケベス    もちろんありますとも



ソクラテス  何だ



ケベス    死んでいることです



ソクラテス  それではこれらのものは反対であるからには、相互から生ずるのだ。そして、これらは二つなのだから、両者の間には、二つの生成があるのだね



ケベス    どうして、そうでないことがありましょう



ソクラテス  では、生きているものから生ずるものは何か



ケべス    死んでいるものです



ソクラテス  死んでいるものからは、何が生ずるのか



ケベス    生きているもが、と同意せざるをえません



ソクラテス  それなら、ケベス、死んでいるものたちから、生きているものたちや生きてい人間たちが生まれるのだね



ケベス    そう思われます



ソクラテス  そうであれば、われわれの魂はハデスに存在していることになる



ケベス    そのようです







☆★☆★☆







私がこの対話を聞いて、二元性のインフィニティ(無限大∞)を思い浮かべます。


美と醜、分離と結合、そして生と死、相対するものが無限大の輪でつながっていて、相互に影響を与えているというイメージが湧いてきます。


この地球は二元性を体験できる素晴らしい舞台ですね。


そして生と死もまた、インフィニティでつながっている。


この世とあの世という表現もできるでしょう。


ソクラテス達は、死ねば魂は一切なくなってしまうけれども、どこからともなく生者は次から次へと供給される…という考え方ではないですね。


生者と死者と実はつながっていて、生から死が生まれ、死から生が生まれるということを言っています。


それは魂が存在するからつながりもあるということでしょう。



この対話の続きを次回、お楽しみに(^_-)-☆

  


Posted by スターエンジェル at 21:32Comments(0)『パイドン』☆ソクラテスとの対話
『パイドン』(プラトン著 岩田靖夫訳 岩波文庫)より肉体からの解放についてのソクラテスの考えをご紹介したいと思います。

尚、この作品はソクラテスが服毒による刑死を控え、獄中で弟子たち(シミアスとケベス)と哲学的対話をするものです。






《P39~》

ソクラテス  もしもある人がまさに死のうとして怒り嘆くのを君が見るならば、それは、その人が哲学者(知恵を愛する者)ではなくて、なにか肉体を愛する者であったことの、充分な証拠となるのではないか。おそらく、この同じ人は金銭を愛する人でもあり、名誉を愛する人でもあるだろう



シミアス   まったく、あなたの言われる通りです



ソクラテス  それなら、節制もまた―――いや、多くの人々が節制と名付けているものでさえ―――言い換えれば、欲望に刺激されて興奮したりせず、むしろ欲望を軽視して端正に振る舞うこともまた、とりわけ肉体を軽視して哲学のうちに生きる者にとってのみふさわしく帰属するのではないか



シミアス   それは必然です



ソクラテス  そうだ、もしも君が他の人びとの勇気や節制を考えてみる気になれば、それらが奇妙なものだと思われるだろう



シミアス   どうしてですか、ソクラテス



ソクラテス  哲学者以外のすべての人々が死を大きな災悪の一つと考えていることは、君も知っているだろうね



シミアス   もちろんです



ソクラテス  それでは、かれらのうちの勇敢な人々が死に耐えるときは、より大きな災悪の恐怖によって死に耐えるのだね



シミアス   まったくです



ソクラテス  では、かれらのうちの端正な人々についてはどうだろう。かれらも同じ状態にあるのではないか。つまり、かれらはある種の放縦(ほうじゅう)によって節度があるのではないか。【中略】

というのは、かれらはある快楽を奪われるのを恐れ、その快楽を欲すればこそ、別の快楽を控えるのであって、つまりは最初の快楽に支配されているからである。

ところで、快楽によって支配されていることを人々は放縦と呼んでいる。ところが、快楽によって支配されているかれらには、別の快楽を支配するという結果が生ずるのである。

このことは、今しがたわれわれが語っていたあの状態に類似している。つまり、かれらはある仕方で放縦によって節制の状態にあるのである



シミアス   はい、そのようですね



ソクラテス  そうだ、浄福なるシミアスよ、こんな風に快楽と快楽を交換し、苦痛と苦痛と交換し、恐怖と恐怖を交換し、貨幣のようにより小さな情念とより大きな情念を交換するというのは、徳を得るための正しい交換ではないだろう。

むしろこれらすべての情念をそれと交換すべき唯一の正しい貨幣とは、知恵であり、この知恵を基準にしてこれらすべての情念が売買されるならば、あるいは、この知恵と共に売買されるならば、その時に、本当に、勇気、節制、正義、知恵を伴ったすべての真実の徳が生ずるのではないか。【中略】

しかし、これらの情念が知恵から切り離され、相互に交換されたら、そのような徳はなにか影絵のようなものであり、まったく奴隷的なもので、なにも健全な点も真実な点も持ってはいないだろう。

これに対して、真実には、節制も正義も勇気も、それらすべての情念からのある種の浄化(カタルシス)なのであり、知恵そのものはこの浄化を遂行するある種の秘儀ではなかろうか。【中略】

さあ、シミアスにケべス、以上が僕の弁明だ。僕は君たちやこの世の主人である神々を後に残して立ち去ってゆくのに、苦しみもせず嘆きもしない。

それは、あの世でもこの世でと同じように、善い主人と友達に出会えるだろう、と信じているからなのだ。

なんと筋の通った話ではないか。この弁明において、僕がアテナイ人の裁判官たちに対してよりも君たちに対して多少なりともより説得的であるならば、それでよしとしよう







☆★☆★☆







ソクラテスはとても興味深いことを言ってますね。

勇気や節制といった徳を、人間はある快楽を得るために(仕方なく)他方の快楽を抑えることに使っているということですね。

しかし、それでは真の徳とは言えないだろうということですね。

なぜならそれは魂を束縛するものをAかBか選んだというだけのことで、例えばAを選ぶためにBを節制したとしても、何ら魂の解放、浄化にはなっていないからというわけですね。

AにしろBにしろ、快楽を選んでいることには変わりないわけですから、快楽に支配されるということになります。

本当に魂が浄化(カタルシス)されるためには、快楽や苦痛、恐怖を”知恵”と交換することが大切であると説いています。

そうすることで、勇気、節制、正義といった真実の徳を使って魂を浄化することができるということですね。

節制、節度という美徳は、何かの快楽を得るために使うのではなくて、魂の浄化のためにあらゆる快楽において使っていく必要のあるものでしょう。



次回はケベスの反論から始まります。どうぞお楽しみに(^_-)-☆
  


Posted by スターエンジェル at 15:43Comments(0)『パイドン』☆ソクラテスとの対話
『パイドン』(プラトン著 岩田靖夫訳 岩波文庫)より死についてのソクラテスの考えをご紹介したいと思います。

尚、この作品はソクラテスが服毒による刑死を控え、獄中で弟子たち(シミアスとケベス)と哲学的対話をするものです。







《P36~》

ソクラテス  本当に我々に明確に示されているところでは、もしもわれわれがそもそも何かを純粋に知ろうとするならば、肉体から離れて、魂そのものによって事柄そのものを見なければならない、ということである。

〈中略〉すなわち、地を獲得することはいかにしても不可能であるか、それとも、可能であるとすれば死者にとってのみである。なぜなら、死んだ時にはじめて、魂は肉体から離れ、自分自身になるだろう。死ぬ前には駄目なのだ。
そして、われわれが生きている限りでは、どうしても避けられない場合を除いては、できるだけ肉体と交わらず共有もせず、肉体の本性に汚染されずに、肉体から清浄な状態になって、神ご自身がわれわれを解放する時を待つのである。

〈中略〉思うに、なにかこんなことが、シミアス、真実に学を愛するすべての人々がお互いに語り合い、また考えている事柄でなければならない。それとも、君にはそうは思われないかね



シミアス   なににもまして、そう思います、ソクラテス



ソクラテス  もしもこれらのことが真実であれば、友よ、僕がこれから行くところへ到達した者には大きな希望があるのだ。もしどこかでありうるとすれば、そこでこそ、われわれが、過ぎ去ったこれまでの人生において、そのために大きな勤勉さをもって追究してきたそのものを充分に獲得するという希望があるのである。だから、今僕に命令されている旅立ちは善い希望とともに行われるだろう。〈後略〉



シミアス   本当にその通りです



ソクラテス  それなら、浄化(カタルシス)とは、この議論の中で先ほど語られたように、魂を肉体からできるだけ切り離すこと、そして、魂を肉体のあらゆる部分から自分自身へととり集め、自分自身として凝集するように習慣づけること、そして、現在においても将来においても、足枷のごときものである肉体から解放されて、魂ができるだけ自分自身だけで単独に生きるように習慣づけることではなかろうか



シミアス   たしかに、その通りです



ソクラテス  ところで、正にこのことが、すなわち、魂の肉体からの解放と分離が、死と名づけられるのではないか



シミアス   まったく、その通りです



ソクラテス  だが、われわれの主張では、魂の解放をつねに望んでいるのは、特に、いや、ただ、正しく哲学している人々だけなのである。そして、哲学者の仕事とは、魂を肉体から解放し分離することである。そうではないか



シミアス   そうだと思います



ソクラテス  それでは、始めに僕が言ったように、人生において、できるだけ死んでいることの近くで生きようと自分自身を準備してきた人が、いざその死がやって来ると、憤激するというのは、笑うべきことではないか



シミアス   笑うべきことです。どうして、そうでないことがありましょう



ソクラテス  それなら、本当に、シミアス、正しく哲学している人々は死ぬことの練習をしているのだ。そして、死んでいることは、かれらにとっては、誰にもまして、少しも恐ろしくないのである。こういう風に考えてみたまえ。

もしも、かれらが到るところで肉体と仲たがいをしてきて、魂それ自身だけを持とうと熱望してきたのに、そのことが起こると、恐怖を覚え憤激するというのでは、これ以上の不合理はないだろう。あの世へ着けば、一方では、生涯を通して憧れつづけてきたもの、知恵、を得るという希望があり、他方では、争いつづけてきたものと一緒にいることから解放されるというのに、あの世に行くのを喜ばないなんて。〈後略〉



シミアス   ゼウスにかけて、確かにまったく不合理です





☆★☆★☆





”人生において、できるだけ死んでいることの近くで生きようと自分自身を準備” することが肉体を持っている間の生き方なのだろうと思いました。

この地上にいながらも、魂の存在として肉体や物質的な制約からいかにして自由になるか、それは私たちの一瞬一瞬の選択にかかっているでしょうね。

望まなければ、また目指さなければ、自由にはなれないのでしょう。望むことの習慣化を図っていくことが必要ですね。



ソクラテスは肉体を離れ魂の世界に行くことを喜びと感じていますが、これは魂の世界が存在するという前提ですね。

それについての議論がさらに深まっていきます。

どうぞ次回もお楽しみに(*^_^*)
  


Posted by スターエンジェル at 22:00Comments(0)『パイドン』☆ソクラテスとの対話
『パイドン』(プラトン著 岩田靖夫訳 岩波文庫)より死についてのソクラテスの考えをご紹介したいと思います。

尚、この作品はソクラテスが服毒による刑死を控え、獄中で弟子たち(シミアスとケベス)と哲学的対話をするものです。


                              




《P33~》

ソクラテス では、シミアス、次の点についてはどうだ。われわれは、なにか正義そのものが存在する、と言うのかね、それとも、言わないのかね


シミアス  ゼウスにかけて、確かに言います


ソクラテス さらに、また、美や善は


シミアス  もちろんです


ソクラテス では、今までに、こういうもののなにかを君は目で見たことがあるか


シミアス  けっして、ありません


ソクラテス では、君は、目以外の他の肉体的な感覚によって、それらを把握したことがあるか。〈中略〉これらのもののもっとも真実な姿が肉体を通して見られるであろうか。それとも、こういう事情なのではないか。われわれのうちの誰にもせよ、自分が考察するものごとについて、そのもの自体をもっとも充分にそしてもっとも厳密に思考しようと準備する者が、それぞれのものを知ることにもっとも接近するのではないか


シミアス  まったく、その通りです


ソクラテス それでは、このことをもっとも純粋に成し遂げる人は、以下に述べるような人ではなかろうか。その人は、できるだけ思惟そのものによってそれぞれのものに向かい、思惟する働きの中に視覚を付け加えることもなく、他のいかなる感覚を引きずり込んで思考と一緒にすることもなく、純粋な思惟それ自体のみを用いて、存在するもののそれぞれについて純粋なそのもの自体のみを追究しようと努力する人である〈後略〉


シミアス  ソクラテス、あなたはなんと見事に真実を語られたことでしょう


ソクラテス 〈前略〉肉体は、それを養うことが避けられないために、無数の厄介をわれわれに背負わせるのだ。さらに、もしもなにかの病がわれわれを襲えば、それはわれわれの真実在の探求を妨害するだろう。肉体は、また、愛欲、欲望、恐怖、あらゆる種類の妄想、数々のたわ言でわれわれを充たし、そのために、諺にも言われているように、われわれは肉体のために、何かを真実にまた本当に考えることがけっしてできないのである。

じっさい、戦争や内乱や争いでさえ、他ならぬ肉体とその欲望が惹起するものではないか。というのは、すべての戦争は財貨の獲得のために起こるのだが、われわれが財貨を獲得せねばならないのは、肉体のため、奴隷となって肉体の世話をしなければならないからである。こうして、これらすべての理由によって、われわれは哲学するゆとりを失うのである。

だが、なによりも悪いことは、仮にわれわれに肉体からの多少の解放が生じ、なにかを考察することへと向かったとしても、探求のさ中でふたたび肉体はいたるところに出現し、騒ぎと混乱をひき起こし、われわれを脅かして正気を失わせる。その結果、われわれは肉体のために真実を見ることができなくなるのだ。





☆★☆★☆





肉体からの解放、思えばソクラテスを始め先人が一心に探究してきたことではないでしょうか。

例えばお釈迦様はインドの一国の王子として生まれ、裕福な環境で育ったわけですが、やがてその暮らしを捨てて出家し、道を探究し、悟りを得て人々に説いていかれたわけですね。

また先日、アッシジの聖フランチェスコについて描かれた映画「ブラザー・サン シスター・ムーン(Brother Sun Sister Moon)」を観たのですが、聖フランチェスコも裕福な家庭に生まれたんですね。しかし戦争から戻ってきた後、自然の美しさに魅了されるようになり、また人々が苦しい生活に耐えている姿をみて、物質、富の一人占めや権力などは神の御意志ではないと悟り家を出て自分の信じるところへと探究の旅に出ました。

なんだかお釈迦様と似てらっしゃいますね!

全てを捨てて、という勇気はなかなか持てませんが、真実を探求すること、神の御意志、愛を探究するためには物質主義的なものから敢えて遠ざかることが必要だったのかもしれませんね。

お釈迦様や聖フランチェスコ、そしてソクラテスといった偉大な先人の生き方を通して私たちは、魂を大切にすること、肉体にとらわれないこと、真実を探求することを教えてもらっていると思います。

しかし考えてみれば、我々の本来の姿である魂を封じ込めてしまいかねない肉体というものを、わざわざ身に着けて生きていこうと思い、この地球に転生してきたのが私たちですね。

魂のままならば不自由ないのに、私たちは肉体を着ています。

う~ん、なんと思い切った冒険でしょうか!

肉体を身に着けながらも、魂の存在としてのあり方を探究していくことを私たちは選んだのでしょう。

決してソクラテスやお釈迦様、聖フランチェスコは特別な人間なので真似することは到底できない、ということではないと思います。

素晴らしい例を示して下さった方々ではないでしょうか。そして私たちは先人の知恵を活かして生きていくか、それともそうしないかを日々選択することができますね。



次回はこの続きから始まります。どうぞお楽しみに(^_-)-☆


  


Posted by スターエンジェル at 21:53Comments(0)『パイドン』☆ソクラテスとの対話
こんばんは(^.^)/

今日は『パイドン』(プラトン著 岩田靖夫訳 岩波文庫)より死についてのソクラテスの考えをご紹介したいと思います。

尚、この作品はソクラテスが服毒による刑死を控え、獄中で弟子たち(シミアスとケベス)と哲学的対話をするものです。






〖P30~〗
ソクラテス 死とは、魂の肉体からの分離に他ならないのではないか。すなわち、一方では、肉体が魂から分離されてそれ自身となり、他方では、魂が肉体から分離されてそれ自身単独に存在していること、これが死んでいる、ということではないか。死とは、これ以外のなにか他のものでありうるだろうか

シミアス  ありえません。まさにそれです。

ソクラテス では、善い人よ、僕の思っていることが君にも賛成できるかどうか、考えてみてくれないか。《中略》いったい、哲学者は、いわゆる快楽を、たとえば、飲食の快楽を、熱心に追求する、と君には思えるかね

シミアス  とんでもありません、ソクラテス

ソクラテス では、性の快楽はどうだろう

シミアス  問題外です

ソクラテス では、その他の体の世話についてはどうだ。《中略》たとえば、豪華な衣服や靴の所有とか、その他の体に関する装飾とか、こういうものを哲学する人は尊重すると君には思えるかね、それとも、それらを持つことがどうしても必要でない限りは、それらを軽蔑すると思えるかね

シミアス  本当の哲学者なら軽蔑する、と私には思われます

ソクラテス それでは、先ず、このような事柄においては、哲学者は他の人々とは際立って異なっており、できるだけ魂を肉体との交わりから解放するものであることは、明らかだね

シミアス  明らかです

ソクラテス そして、恐らくは、シミアス、多くの人々にはこう思われることだろう。こういう事柄のなにものをも快いとは思わず、こういう事柄に関わろうともしない者は、生きるに値しないのだ。

シミアス  あなたの言われることは、まったく真実です

ソクラテス では、知恵の獲得そのことに関してはどうだ。《中略》魂はいつ真理に触れるのか。なぜなら、肉体と協同してなにかを考察しようと試みれば、その時には、魂は肉体によってすっかり欺かれてしまうのは、明らかだからだ

シミアス  あなたの言われることは真実です

ソクラテス したがって、もしも存在するものの何かが魂に明らかになる場所がどこかにあるとすれば、それは思考においてではなかろうか

シミアス  そうです

ソクラテス ところで、おそらく、思考がもっとも見事に働くときは、これらの諸感覚のどんなものも、聴覚も、視覚も、なんらかの快楽も魂を悩ますことがなく、魂が、肉体に別れを告げてできるだけ自分自身になり、可能な限り肉体と交わらず接触もせずに、真実在を希求するときである

シミアス  その通りです




☆ ★ ☆ ★ ☆
 



ギリシャの哲学者たちはとてもストイックな感じですね~(^.^)

臨死体験をした方の話にはお花畑など楽園に行った後、肉体に戻ってきたというものがありますね。

他にも左脳が病気で障がいされた方が右脳の世界では他にない幸福感を味わったという話もあります。

左脳は確かに物質的な局面に焦点を当てることが得意なのかもしれません。

そこを離れるとあの世または光の世界と一体になるということが感じやすいのかもしれませんね。

ソクラテスはあの世こそ幸せな世界ということで、死を全く恐れていないわけですが、肉体をもったまま死んだような幸せな状態でいることができれば、それは最高でしょうね。

お釈迦様は生きて悟りを開かれたわけですが、これは肉体を持ちながら涅槃に入った状態ということかもしれません。

魂と肉体、この地上の世界は二元性を免れません。どちらかをとればどちらかを失うということに陥りがちかもしれませんが、魂と肉体のバランスをとっていくということも、私たちの選択肢の重要な一つではないかと思います。

肉体は魂の指令に従うことで私たちが幸せに生きていくのをサポートしてくれるでしょう。

魂が喜ぶことを肉体をもったまま実践していくこと。

本当に楽しいとき、集中している時、真理に気付いた時というのは、肉体や時間といったものをいちいち意識していないかもしれませんね。

そしてまた瞑想というのは肉体の意識から離れることのできる素晴らしい機会ともなると思います。



話はまだ続きますよ♪ 次回、お楽しみに(^_-)-☆
  


Posted by スターエンジェル at 19:59Comments(0)『パイドン』☆ソクラテスとの対話
こんばんは(^.^)/

今日は『パイドン』(プラトン著 岩田靖夫訳 岩波文庫)の自殺禁止論の部分よりソクラテスの考えをご紹介したいと思います。

尚、この作品はソクラテスが服毒による刑死を控え、獄中で弟子たちと哲学的対話をするものです。






〈P24,2行目~〉

【ソクラテス】秘教の教義の中で語られている根拠があるのだが、われわれ人間はある牢獄の中にいて、そこから自分自身を解放して逃げ出してはならないのである。これは、僕には、なにか高邁(こうまい)な、容易にはその真意を見抜けない思想のように思われる。
それにもかかわらず、少なくともこのことは、ケべス、僕には正しく語られていると思われる。すなわち、神々はわれわれ人間を配慮するものであり、われわれ人間は神々の所有物(奴隷)の一つである、と。君にはそうだと思われないかね

【ケべス】そうだと思います

【ソクラテス】それなら、君にしたって、君の所有物の一つが、君がそれの死を望むという意思表示もしていないのに、自分自身を殺すとすれば、それに対して腹を立て、もしなにか処罰の手段をもっていれば、処罰するだろう?

【ケべス】まったくです。

【ソクラテス】では、その意味では、おそらく、現にわれわれの眼前にあるような何らかの必然を神が送りたもうまでは、自分自身を殺してはいけない、ということは、根拠のないことでない。




ソクラテスが死後の世界の印象を語っています。《P26,12行目~》

【ソクラテス】シミアスにケべス、もしも僕が、第一に、この世を支配する神々とは別の賢くて善い神々のもとにこれから行くだろうということ、第二に、この世の人々よりはより優れた死んだ人々のもとにも行くだろうということ、これらのことを信じていなかったとすれば、僕は、死に対して憤慨しなければ、不正を犯したことになるだろう。
だが、事実はどうかといえば、よく承知しておいてもらいたいのだが、僕は善い人々のもとへ行くだろう、という希望をもっているのだ。もっとも、この点は僕はあまり強く断言するつもりはないが。
しかし、非常に善い主人である神々のもとに行くだろう、という点は、なにかこの種のことで他に僕が断言するかもしれないことがあるとすれば、これこそがそれだ、ということをよく承知してもらいたい。〈中略〉僕は、死者たちには何かが有る、という善い希望をもっている。
しかも、古い言い伝えにあるように、悪い人々にとってよりは、善い人々にとっては遥かに善い何かが待っているのだ、と






人間は神の所有物であるから、神が私たちにあの世に旅立つ必然を与えるまでは自ら殺すようなことをしてはいけない、とソクラテスは言っていますね。

私たちは地上に転生してくる際には、素晴らしい人生を送ることを思って降り立ってくるのではないでしょうか。

生まれたばかりの赤ちゃんが、自殺することを考えているとは思えません。

しかし成長してくるに従って、困難なことに遭遇し自殺という結果になってしまうことがあります。

神はご自分の創造物である私たちが、自分自身を殺すということを望んではいらっしゃらないでしょう。

この地球は魂のレッスン、修養の場といわれています。

肉体という不自由なものを身に着け、DNAも本来の状態とは著しく異なる不活性な状態で使っているわけですが、そういうなかで物事を顕現していく、感情を味わう、愛を分かち合う、宇宙の叡智やスピリットとつながり現実世界に活かしていくということをやってのけようと思って冒険の旅に出ているわけですから、私たちはなんと勇敢な魂なのでしょう!!

神からすればその愛すべき勇敢な魂が自分を殺すということは、とても悲しまれるのではないかと思います。

そしてまた、ソクラテスはあの世にとても明るい展望を抱いていますね☆

善い人々や善い神々と出会える喜び、はやくあの世に行きたいという感じです。

そこでシミアスとケべスがその考えをさらに深く説明してくれるよう要請します。

続きをお楽しみに☆
  


Posted by スターエンジェル at 21:40Comments(0)『パイドン』☆ソクラテスとの対話
こんばんは(^.^)/

今日は『パイドン』(Phaedo)〔プラトン著 岩田靖男訳 岩波文庫〕よりソクラテスと弟子のケべスとの対話を引用してご紹介したいと思います。




〈P18~21〉獄中での対話が始まります。

ソクラテス  諸君、人々が快と呼んでいるのものは、なんとも奇妙なもののようだ。それの反対と思われている苦痛に対して、快は生来なんと不可思議な関係にあることだろう。この両者はけっして同時に人間にやって来ようとはしないのに、だれかが一方を追いかけてつかまえると、ほとんど常に他方をつかまえさせられる。まるで、二つでありながら、一つの頭で結合されているみたいにね。



ケべス  ゼウスにかけて、ソクラテス、おかげさまで思い出したことがあるのです。つまり、あなたがお作りになった詩についてです。あなたは以前にはけっして詩などお作りになったことがないのに、ここ牢獄に来て以来、アイソポスの物語を詩に直したりアポロンへの賛歌を作ったりなさっているのですが、いったいどういうお考えでそういうことをしているのか、と、いろいろな人々に私は訊ねられましたが、《後略》



ソクラテス  《前略》僕は自分が何度も見たある種の夢の意味を確かめようとしたのだ。そして、もしかしてこの夢が僕になすようにと命じていたものがこの種の文芸であったとすれば、その責めを果たそうと思ったのだ。その夢とはなにかこんなものだった。これまでの生涯において、しばしば同じ夢が僕を訪れたのだが、それは、その時々に違った姿をしてはいたが、いつも同じことを言うのだった。『ソクラテス、文芸(ムーシケー)を作り(なし)、それを業とせよ』。

そして、僕は以前には、僕がずっとしてきたことをこの夢が僕に勧め命じているのだ、と思っていた。ちょうど走者に人々が声援を送るように、この夢は僕に、僕がまさにし続けてきたことを文芸をなすこととして激励しているのだ、と。なぜなら、僕は、哲学こそ最高の文芸であり、僕はそれをしているのだ、と考えていたからだ。

しかし、いまや裁判も終わり、神の祭りが僕の死を妨げている間に、僕はこう思ったのだ。もしかしてあの夢は通俗的な意味での文芸をなすようにと僕に命じているのかもしれない。それなら、その夢に逆らうことなく、僕はそれをしなければならない、と。なぜなら、夢に従って詩を作り聖なる義務を果たしてからこの世を立ち去る方が、より安全であるからだ。

こうして、先ず、僕は現にその祭りが行われていた神アポロンへの賛歌を作ったのだ。それから、神への賛歌の後で僕は考えた。詩人というものは、もし本当に詩人[作る人、ポイエーテース]であろうとするなら、ロゴス[真実を語る言論]ではなくてミュトス[創作物語]を作らなければならない、と。そして、僕は物語作家ではないのだから、手近にあって僕がよく知っている物語、つまり、アイソポスの物語を取り上げ、それらのうちで最初に思いついたものを詩に直したのだ。《後略》











ソクラテスはムーシケー(文芸)をなすようにという夢からのメッセージを受けとったということですね。

哲学者のソクラテスが人生最期という時に、詩をはじめとする芸術を、それも高尚なものではなく、通俗的な意味での文芸をなすことの必要性を感じたというのはおもしろいですね。

偏ることなく、なんでも楽しむようにと、天がささやいたのかもしれません。

夢でみたことを信じて行動に起こすというところが、ソクラテスのすごいところだなあと思います。そして哲学者というのは、決して頭だけで考える人ではないんだなあと感じます(*^_^*)

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Posted by スターエンジェル at 22:44Comments(0)『パイドン』☆ソクラテスとの対話
こんばんは(^_-)-☆

パイドン』(Phaedo)〔プラトン著 岩田靖男訳 岩波文庫〕は、ソクラテスが最期に獄中で若い二人の哲学者(シミアスとケべス)と行った対話を、プラトンが素晴らしい書にしたものです。

ギリシャ哲学というと、難しい印象を受けるかもしれませんが、対話形式で書かれていますので、意外に読みやすいです。

これから何度にもわたって、『パイドン』から引用しながら、ソクラテスの思いをご紹介してきたいと思います。








【 〈P10〉紀元然399年の春、ソクラテスは「国家公認の神々を拝まず、青年を腐敗させる」という罪状で告発され、アテナイの牢獄で刑死し
た。
刑死の日の早朝別れを告げに牢獄に集まった弟子たちと、ソクラテスは日暮れまで魂の不死について深く厳しい哲学的対話を交わしたが、その内容が本対話篇である。
この対話はその場に居合わせたパイドンによりプレイウスの人エケクラテスに伝えられた、という形で対話篇は進行する。


〈P11~15〉エケクラテス  パイドン、あなた自身があの日ソクラテスのお側にいたのですか。あの方が牢獄で毒をあおいだあの日に。それとも、誰か他の人からその話を聞いたのですか。

パイドン 私自身がそこにいました、エケクラテス。

《中略》

エケクラテス  それでは、その死そのもののご様子はどのようでしたか、パイドン。どのようなことが語られ、どのようなことがなされたのですか。そして、あの方に親しい人々のうちで、だれがその場に居合わせたのですか。それとも、だれもその場に居あわせることを役人たちが許さず、あの方は友人からはなれて孤独のうちに息絶えられたのでしょうか。

パイドン いいえ、けっしてそんなことはありません。居あわせた人々はおりました。それも多くの人々が。

エケクラテス  では、そういうことをすべてできるだけ明らかに私たちに知らせてはくださいませんか。もし、いまなにか忙しいご用事がなければ。

《中略》

パイドン  では申しましょう。じつは、その場に居あわせて私は驚くべき感情を味わったのです。というのは、親しい人の死に立ち会っているというのに、私は悲しみの気持に襲われてなかったのです。
あの方はその態度においても言葉においても幸福そうに私には見えたからなのです。ほんとうに、なんと恐れなき高貴なご最期であったことでしょうか。
そこで私はこう思いました。この方ならば、神のご配慮なしにハデスの国へ行くことはないだろうし、またその国へ着いてからも、いやしくもそこにだれか幸福な人がいるとすれば、この方こそがその人であろう、と。
こういうわけで、不幸に立ち会っている者にとっては当然起こってよさそうな悲しみの気持が、私にはほとんど起こらなかったのです。だが、そうだからと言って、私たちは哲学しているのだと思ってもーーーじっさい、そのときの言論は哲学的なものであったのですがーーーそういうときにいつもは感ずる愉しい気持ちも起こりませんでした。
いや、まったく奇妙な感情に私はずっととらえられていたのです。〈中略〉その場に居あわせた人々はみなほとんど同じような有様でした。

《中略》

エケクラテス  さあ、それでは、どのような議論がそこでおこなわれたのか、話してくださいませんか。 】










これからソクラテスと、主にシミアスとケべスの三人による対話が始まります。霊魂不滅や想起説などの話が繰り広げられます。

シリーズでご紹介していきますね(^_-)-☆

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Posted by スターエンジェル at 20:59Comments(0)『パイドン』☆ソクラテスとの対話