2017年07月19日
『我慢(がまん)☆ 末那識の四つの煩悩』
以前にも仏教でいう「我慢」の意味について書きましたが、改めて書かせて頂きたいと思います。
唯識思想では、深層心の末那識(まなしき)には四つの煩悩があり、その内の我慢とは、自分に対する慢心を意味してします。
自分への驕り(おごり)の気持ちですね。
私たちが自分は“固定した、独立した存在である“という認識を持つことで、他との関係が縁となって生起するという「縁起の法」の理解から離れてしまい、自分への執着心というものが強くなっていきます。
自分という確固としたものが存在すると思うようになり、その自分を拠り所として生きるようになります。
そして他者と自分との比較を始めるようになります。
私はあの人より優れているとか、あの人はすごいけど私も負けてはいない、または他人に対して卑下することで逆説的に優越感を得る、などの心の作用があると思います。
“我を張る“という言葉がありますが、それも我慢の意味ですね。

唯識では元々、固定的なもの、独立して存在するものは無く、すべて縁起によって生じているに過ぎないという考えですから、自我というものも、縁により生じては消え、また生じては消えを繰り返す実体のないものということになります。
しかしその“自我“に執着して、自分はいつもそれ自体で存在しているんだというふうに考えるようになると、それは「縁起の法」とは違う見方だということになりますね。
そういう見方のことを、“実相を知らない”と言うわけですが、実相を知らないからこそ、諸々の悩みが生じるという話になってきます。
常に優越感を味わうことが重要となったり、他者からの批判に過剰に反応したり、反対に劣等感にさいなまれたりと、忙しく心を働かせなければならなくなってしまいます。
実相を知らないということが、自分という固定した存在を意識させ、そして他者と比較して自我を満足させようという心のメカニズムが働くわけですね。
次回は四つの煩悩の最後である「我愛」を見ていきたいと思います。
Posted by スターエンジェル at 20:31│Comments(0)
│仏の教え
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