『パイドン』(プラトン著 岩田靖夫訳 岩波文庫)より肉体からの解放についてのソクラテスの考えをご紹介したいと思います。
尚、この作品はソクラテスが服毒による刑死を控え、獄中で弟子たち(シミアスとケベス)と哲学的対話をするものです。

《P39~》
ソクラテス もしもある人がまさに死のうとして怒り嘆くのを君が見るならば、それは、その人が哲学者(知恵を愛する者)ではなくて、なにか肉体を愛する者であったことの、充分な証拠となるのではないか。おそらく、この同じ人は金銭を愛する人でもあり、名誉を愛する人でもあるだろう
シミアス まったく、あなたの言われる通りです
ソクラテス それなら、節制もまた―――いや、多くの人々が節制と名付けているものでさえ―――言い換えれば、欲望に刺激されて興奮したりせず、むしろ欲望を軽視して端正に振る舞うこともまた、とりわけ肉体を軽視して哲学のうちに生きる者にとってのみふさわしく帰属するのではないか
シミアス それは必然です
ソクラテス そうだ、もしも君が他の人びとの勇気や節制を考えてみる気になれば、それらが奇妙なものだと思われるだろう
シミアス どうしてですか、ソクラテス
ソクラテス 哲学者以外のすべての人々が死を大きな災悪の一つと考えていることは、君も知っているだろうね
シミアス もちろんです
ソクラテス それでは、かれらのうちの勇敢な人々が死に耐えるときは、より大きな災悪の恐怖によって死に耐えるのだね
シミアス まったくです
ソクラテス では、かれらのうちの端正な人々についてはどうだろう。かれらも同じ状態にあるのではないか。つまり、かれらはある種の放縦(ほうじゅう)によって節度があるのではないか。【中略】
というのは、かれらはある快楽を奪われるのを恐れ、その快楽を欲すればこそ、別の快楽を控えるのであって、つまりは最初の快楽に支配されているからである。
ところで、快楽によって支配されていることを人々は放縦と呼んでいる。ところが、快楽によって支配されているかれらには、別の快楽を支配するという結果が生ずるのである。
このことは、今しがたわれわれが語っていたあの状態に類似している。つまり、かれらはある仕方で放縦によって節制の状態にあるのである
シミアス はい、そのようですね
ソクラテス そうだ、浄福なるシミアスよ、こんな風に快楽と快楽を交換し、苦痛と苦痛と交換し、恐怖と恐怖を交換し、貨幣のようにより小さな情念とより大きな情念を交換するというのは、徳を得るための正しい交換ではないだろう。
むしろこれらすべての情念をそれと交換すべき唯一の正しい貨幣とは、知恵であり、この知恵を基準にしてこれらすべての情念が売買されるならば、あるいは、この知恵と共に売買されるならば、その時に、本当に、勇気、節制、正義、知恵を伴ったすべての真実の徳が生ずるのではないか。【中略】
しかし、これらの情念が知恵から切り離され、相互に交換されたら、そのような徳はなにか影絵のようなものであり、まったく奴隷的なもので、なにも健全な点も真実な点も持ってはいないだろう。
これに対して、真実には、節制も正義も勇気も、それらすべての情念からのある種の浄化(カタルシス)なのであり、知恵そのものはこの浄化を遂行するある種の秘儀ではなかろうか。【中略】
さあ、シミアスにケべス、以上が僕の弁明だ。僕は君たちやこの世の主人である神々を後に残して立ち去ってゆくのに、苦しみもせず嘆きもしない。
それは、あの世でもこの世でと同じように、善い主人と友達に出会えるだろう、と信じているからなのだ。
なんと筋の通った話ではないか。この弁明において、僕がアテナイ人の裁判官たちに対してよりも君たちに対して多少なりともより説得的であるならば、それでよしとしよう
☆★☆★☆
ソクラテスはとても興味深いことを言ってますね。
勇気や節制といった徳を、人間はある快楽を得るために(仕方なく)他方の快楽を抑えることに使っているということですね。
しかし、それでは真の徳とは言えないだろうということですね。
なぜならそれは魂を束縛するものをAかBか選んだというだけのことで、例えばAを選ぶためにBを節制したとしても、何ら魂の解放、浄化にはなっていないからというわけですね。
AにしろBにしろ、快楽を選んでいることには変わりないわけですから、快楽に支配されるということになります。
本当に魂が浄化(カタルシス)されるためには、快楽や苦痛、恐怖を”知恵”と交換することが大切であると説いています。
そうすることで、勇気、節制、正義といった真実の徳を使って魂を浄化することができるということですね。
節制、節度という美徳は、何かの快楽を得るために使うのではなくて、魂の浄化のためにあらゆる快楽において使っていく必要のあるものでしょう。
次回はケベスの反論から始まります。どうぞお楽しみに(^_-)-☆
尚、この作品はソクラテスが服毒による刑死を控え、獄中で弟子たち(シミアスとケベス)と哲学的対話をするものです。

《P39~》
ソクラテス もしもある人がまさに死のうとして怒り嘆くのを君が見るならば、それは、その人が哲学者(知恵を愛する者)ではなくて、なにか肉体を愛する者であったことの、充分な証拠となるのではないか。おそらく、この同じ人は金銭を愛する人でもあり、名誉を愛する人でもあるだろう
シミアス まったく、あなたの言われる通りです
ソクラテス それなら、節制もまた―――いや、多くの人々が節制と名付けているものでさえ―――言い換えれば、欲望に刺激されて興奮したりせず、むしろ欲望を軽視して端正に振る舞うこともまた、とりわけ肉体を軽視して哲学のうちに生きる者にとってのみふさわしく帰属するのではないか
シミアス それは必然です
ソクラテス そうだ、もしも君が他の人びとの勇気や節制を考えてみる気になれば、それらが奇妙なものだと思われるだろう
シミアス どうしてですか、ソクラテス
ソクラテス 哲学者以外のすべての人々が死を大きな災悪の一つと考えていることは、君も知っているだろうね
シミアス もちろんです
ソクラテス それでは、かれらのうちの勇敢な人々が死に耐えるときは、より大きな災悪の恐怖によって死に耐えるのだね
シミアス まったくです
ソクラテス では、かれらのうちの端正な人々についてはどうだろう。かれらも同じ状態にあるのではないか。つまり、かれらはある種の放縦(ほうじゅう)によって節度があるのではないか。【中略】
というのは、かれらはある快楽を奪われるのを恐れ、その快楽を欲すればこそ、別の快楽を控えるのであって、つまりは最初の快楽に支配されているからである。
ところで、快楽によって支配されていることを人々は放縦と呼んでいる。ところが、快楽によって支配されているかれらには、別の快楽を支配するという結果が生ずるのである。
このことは、今しがたわれわれが語っていたあの状態に類似している。つまり、かれらはある仕方で放縦によって節制の状態にあるのである
シミアス はい、そのようですね
ソクラテス そうだ、浄福なるシミアスよ、こんな風に快楽と快楽を交換し、苦痛と苦痛と交換し、恐怖と恐怖を交換し、貨幣のようにより小さな情念とより大きな情念を交換するというのは、徳を得るための正しい交換ではないだろう。
むしろこれらすべての情念をそれと交換すべき唯一の正しい貨幣とは、知恵であり、この知恵を基準にしてこれらすべての情念が売買されるならば、あるいは、この知恵と共に売買されるならば、その時に、本当に、勇気、節制、正義、知恵を伴ったすべての真実の徳が生ずるのではないか。【中略】
しかし、これらの情念が知恵から切り離され、相互に交換されたら、そのような徳はなにか影絵のようなものであり、まったく奴隷的なもので、なにも健全な点も真実な点も持ってはいないだろう。
これに対して、真実には、節制も正義も勇気も、それらすべての情念からのある種の浄化(カタルシス)なのであり、知恵そのものはこの浄化を遂行するある種の秘儀ではなかろうか。【中略】
さあ、シミアスにケべス、以上が僕の弁明だ。僕は君たちやこの世の主人である神々を後に残して立ち去ってゆくのに、苦しみもせず嘆きもしない。
それは、あの世でもこの世でと同じように、善い主人と友達に出会えるだろう、と信じているからなのだ。
なんと筋の通った話ではないか。この弁明において、僕がアテナイ人の裁判官たちに対してよりも君たちに対して多少なりともより説得的であるならば、それでよしとしよう
☆★☆★☆
ソクラテスはとても興味深いことを言ってますね。
勇気や節制といった徳を、人間はある快楽を得るために(仕方なく)他方の快楽を抑えることに使っているということですね。
しかし、それでは真の徳とは言えないだろうということですね。
なぜならそれは魂を束縛するものをAかBか選んだというだけのことで、例えばAを選ぶためにBを節制したとしても、何ら魂の解放、浄化にはなっていないからというわけですね。
AにしろBにしろ、快楽を選んでいることには変わりないわけですから、快楽に支配されるということになります。
本当に魂が浄化(カタルシス)されるためには、快楽や苦痛、恐怖を”知恵”と交換することが大切であると説いています。
そうすることで、勇気、節制、正義といった真実の徳を使って魂を浄化することができるということですね。
節制、節度という美徳は、何かの快楽を得るために使うのではなくて、魂の浄化のためにあらゆる快楽において使っていく必要のあるものでしょう。
次回はケベスの反論から始まります。どうぞお楽しみに(^_-)-☆