『パイドン』(プラトン著 岩田靖夫訳 岩波文庫)より霊魂の不滅の証明についてのギリシャのソクラテスの考えをご紹介したいと思います。
尚、この作品はソクラテスが服毒による刑死を控え、獄中で弟子たち(シミアスとケベス)と哲学的対話をするものです。

《P44~》
ケベス ソクラテス、他の事は見事に語られたと私には思われます。しかし、魂について語られたことは人々に多くの疑念を呼び起こすものです。かれらはこう恐れているのです。魂は肉体から分離されると、もはやどこにも存在しないのではないか。
それは、人が死んだその日に、肉体から離されると、もはやどこにも存在しないのではないか。 【中略】
しかし、人間が死んでも、魂は存続しなんらかの力と知恵を持ちつづける、ということを認めるには、恐らく、少なからぬ説得と証明が必要となるのです。
ソクラテス ケベス、君の言うことは本当だ。では、どうしようか。よければ、これらのことについて話し合いをしようか。これらのことがそうあるのが当然なのか、それともそうではないのか、を
《P47~》
ソクラテス さて、この問題を何か次のように考察してみようではないか。死んだ人たちの魂はハデスに存在するのか、それとも、存在しないのか、と。
ところで、これについてはなにか大昔からの教説があるのを、われわれは覚えている。その教説によると、魂はこの世からあの世へと到り、そこに存在し、再びあの世から到来して、死者たちから生まれる、というのだ。
そこで、もしこれが真実だとすれば、すなわち、生者は死者から再び生まれるのだとすれば、われわれの魂はあの世に存在する他はないではないか。【後略】
ケベス その通りです
ソクラテス では、君がもっと容易に理解しようと望むならば、このことを単に人間についてだけではなくて、すべての動物や植物についてもまた考察しなければならない。
そして、全体的に言って、およそ生成するすべてのものについて、すべてはこのように生成するのかどうかを見てみようではないか。
すなわち、なにか反対のものがある限りのものにおいては―――たとえば、美が醜に反対であり、正が不正に反対であり、その他無数のものがそのような関係にあるのだが―――そういうものにおいては、その一方は反対である他方からしか生じえないのだと、ということを。
【中略】
たとえば、なにかがより大きくなる時には、必ず、以前により小さな状態にあって、そこから後により大きくなるのではないか
ケベス そうです
ソクラテス ではまた、それがより小さくなるならば、以前のより大きな状態から後により小さくなるだろう
ケベス その通りです
ソクラテス それではまた、分離すると結合するとか、冷たくなると熱くなるとか、すべてこういうものは、たとえある場合にはわれわれは言葉を用いないとしても、たしかに現実においてはあらゆるところで必ず次のような事情にあるのではないか。
つまり、それらの反対物は相互から生成し、それぞれが互いに他方へ生成する、ということだ
ケベス まったくその通りです
ソクラテス それではどうだ。生きていることに対してなにか反対のものがあるかね。ちょうど目覚めていることに対して眠っていることが反対であるように
ケベス もちろんありますとも
ソクラテス 何だ
ケベス 死んでいることです
ソクラテス それではこれらのものは反対であるからには、相互から生ずるのだ。そして、これらは二つなのだから、両者の間には、二つの生成があるのだね
ケベス どうして、そうでないことがありましょう
ソクラテス では、生きているものから生ずるものは何か
ケべス 死んでいるものです
ソクラテス 死んでいるものからは、何が生ずるのか
ケベス 生きているもが、と同意せざるをえません
ソクラテス それなら、ケベス、死んでいるものたちから、生きているものたちや生きてい人間たちが生まれるのだね
ケベス そう思われます
ソクラテス そうであれば、われわれの魂はハデスに存在していることになる
ケベス そのようです
☆★☆★☆
私がこの対話を聞いて、二元性のインフィニティ(無限大∞)を思い浮かべます。
美と醜、分離と結合、そして生と死、相対するものが無限大の輪でつながっていて、相互に影響を与えているというイメージが湧いてきます。
この地球は二元性を体験できる素晴らしい舞台ですね。
そして生と死もまた、インフィニティでつながっている。
この世とあの世という表現もできるでしょう。
ソクラテス達は、死ねば魂は一切なくなってしまうけれども、どこからともなく生者は次から次へと供給される…という考え方ではないですね。
生者と死者と実はつながっていて、生から死が生まれ、死から生が生まれるということを言っています。
それは魂が存在するからつながりもあるということでしょう。
この対話の続きを次回、お楽しみに(^_-)-☆
尚、この作品はソクラテスが服毒による刑死を控え、獄中で弟子たち(シミアスとケベス)と哲学的対話をするものです。

《P44~》
ケベス ソクラテス、他の事は見事に語られたと私には思われます。しかし、魂について語られたことは人々に多くの疑念を呼び起こすものです。かれらはこう恐れているのです。魂は肉体から分離されると、もはやどこにも存在しないのではないか。
それは、人が死んだその日に、肉体から離されると、もはやどこにも存在しないのではないか。 【中略】
しかし、人間が死んでも、魂は存続しなんらかの力と知恵を持ちつづける、ということを認めるには、恐らく、少なからぬ説得と証明が必要となるのです。
ソクラテス ケベス、君の言うことは本当だ。では、どうしようか。よければ、これらのことについて話し合いをしようか。これらのことがそうあるのが当然なのか、それともそうではないのか、を
《P47~》
ソクラテス さて、この問題を何か次のように考察してみようではないか。死んだ人たちの魂はハデスに存在するのか、それとも、存在しないのか、と。
ところで、これについてはなにか大昔からの教説があるのを、われわれは覚えている。その教説によると、魂はこの世からあの世へと到り、そこに存在し、再びあの世から到来して、死者たちから生まれる、というのだ。
そこで、もしこれが真実だとすれば、すなわち、生者は死者から再び生まれるのだとすれば、われわれの魂はあの世に存在する他はないではないか。【後略】
ケベス その通りです
ソクラテス では、君がもっと容易に理解しようと望むならば、このことを単に人間についてだけではなくて、すべての動物や植物についてもまた考察しなければならない。
そして、全体的に言って、およそ生成するすべてのものについて、すべてはこのように生成するのかどうかを見てみようではないか。
すなわち、なにか反対のものがある限りのものにおいては―――たとえば、美が醜に反対であり、正が不正に反対であり、その他無数のものがそのような関係にあるのだが―――そういうものにおいては、その一方は反対である他方からしか生じえないのだと、ということを。
【中略】
たとえば、なにかがより大きくなる時には、必ず、以前により小さな状態にあって、そこから後により大きくなるのではないか
ケベス そうです
ソクラテス ではまた、それがより小さくなるならば、以前のより大きな状態から後により小さくなるだろう
ケベス その通りです
ソクラテス それではまた、分離すると結合するとか、冷たくなると熱くなるとか、すべてこういうものは、たとえある場合にはわれわれは言葉を用いないとしても、たしかに現実においてはあらゆるところで必ず次のような事情にあるのではないか。
つまり、それらの反対物は相互から生成し、それぞれが互いに他方へ生成する、ということだ
ケベス まったくその通りです
ソクラテス それではどうだ。生きていることに対してなにか反対のものがあるかね。ちょうど目覚めていることに対して眠っていることが反対であるように
ケベス もちろんありますとも
ソクラテス 何だ
ケベス 死んでいることです
ソクラテス それではこれらのものは反対であるからには、相互から生ずるのだ。そして、これらは二つなのだから、両者の間には、二つの生成があるのだね
ケベス どうして、そうでないことがありましょう
ソクラテス では、生きているものから生ずるものは何か
ケべス 死んでいるものです
ソクラテス 死んでいるものからは、何が生ずるのか
ケベス 生きているもが、と同意せざるをえません
ソクラテス それなら、ケベス、死んでいるものたちから、生きているものたちや生きてい人間たちが生まれるのだね
ケベス そう思われます
ソクラテス そうであれば、われわれの魂はハデスに存在していることになる
ケベス そのようです
☆★☆★☆
私がこの対話を聞いて、二元性のインフィニティ(無限大∞)を思い浮かべます。
美と醜、分離と結合、そして生と死、相対するものが無限大の輪でつながっていて、相互に影響を与えているというイメージが湧いてきます。
この地球は二元性を体験できる素晴らしい舞台ですね。
そして生と死もまた、インフィニティでつながっている。
この世とあの世という表現もできるでしょう。
ソクラテス達は、死ねば魂は一切なくなってしまうけれども、どこからともなく生者は次から次へと供給される…という考え方ではないですね。
生者と死者と実はつながっていて、生から死が生まれ、死から生が生まれるということを言っています。
それは魂が存在するからつながりもあるということでしょう。
この対話の続きを次回、お楽しみに(^_-)-☆