阿蘇山はかつて、寺院・僧房が建ち並び、仏教が栄えたところでもありました。
阿蘇山の寺院の開祖には2つの説があるようです。
1つは、奈良時代の初期に天竺(インド)から最栄読師という方が日本に来られて、阿蘇山で自ら十一面観音【健磐龍命(タケイワタツノミコト)の本地仏】を造り祀ったという説。
2つ目は、慈恵大師良源(912~985年・第18代天台座主)の弟子筋にあたる最栄という僧侶が阿蘇大宮司に願い出て阿蘇山に住むようになったという説です。
阿蘇山では健磐龍命と十一面観音が神仏習合し、仏教も繁栄しました。

(西巌殿寺所蔵・熊本県立美術館寄託)
山上近くに「三十六坊五十二庵」という規模の坊舎や庵が建っていたといいます。
阿蘇山には衆徒(しゅと)と呼ばれる僧侶、行者(修験者)、そして山伏(やまぶし)の3者が仏教や修験道を通して活躍していたそうです。
衆徒の支配下に行者がいたそうですが、この2者には対立もあり、緊張した関係でもあったようです。
また山伏は衆徒と行者それぞれに属していたそうです。
衆徒・行者・山伏は寺社奉行の支配下にありましたが、寺社奉行は阿蘇家の家臣が務めていました。
衆徒と行者の住まいを坊舎、山伏の住まいを庵と言いますが、それが三十六坊五十二庵あったというわけですから、一大山岳仏教の聖地だったわけですね。
ところが、阿蘇神宮の大宮司家でもある豪族の阿蘇氏が薩摩の島津氏に攻められたため、衆徒らも散り散りになり、阿蘇山の寺院は衰退の一途をたどります。
その後加藤清正が肥後北部を治めるようになると、阿蘇の神社と寺院の復興にとりかかります。
阿蘇山の麓(ふもと)に坊舎や庵が建てられ、その地帯を麓坊中(ふもとぼうちゅう)といいます。
阿蘇山のお寺の宗派としては天台宗になるのですが、行者の人々は真言宗系の修験である当山派(どうざんは)に属するようになり、奈良から熊野への大峯山(おおみねさん)の峰入りにも参加したそうです。
お寺の宗派と修験の系統が別々になっていて成立しているところが面白いですね。
せっかく復興した阿蘇の坊中ですが、明治維新によりその状況が一変します。
新政府は神仏分離と国家神道の推進を図り、また廃藩置県で扶持米(ふちまい)を打ち切られたため、これまで神仏習合で繁栄してきた阿蘇山の寺院は廃寺になりました。
僧侶たちは還俗(げんぞく)したり神官に転身したりしました。
しかしお寺がなくなってしまうと、各寺院で祀られていた仏像等の管理の問題や、葬式をはじめとする法要ができなくなって、困ってしまいます。
そこで山上にあった本堂を麓に移し、麓坊中の中心的存在であった学頭房(がくとうぼう)を西巌殿寺(さいがんでんじ)として仏像等も集め、寺院の存続を図りました。


そして1890年には山上に西巌殿寺の奥の院が建てられました。

しかし残念ながら2001年に不審火により麓の本堂が焼失しました。

(焼失した本堂跡に残る礎石)
本堂跡の敷地の一角にお堂があり、修験道の開祖である役行者や足手荒神などが祀られています。

古来阿蘇では神道のみならず仏教も栄えていたということがとても興味深いですが、現在も西巌殿寺本坊でたくさんの仏様が祀られており、さらに採燈護摩(さいとうごま)も行われ、阿蘇山の山岳仏教の法灯(ほうとう)が受け継がれていることを素晴らしいなあと思います。


また寺領の一画に立派な宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建てられています。
宝篋印塔とは、宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)というお経を納めた塔のことをいいますが、この塔を拝むと罪業消滅・極楽往生のご利益があるといわれています。
玉名出身の豪潮(ごうちょう)という強い法力をもった僧侶が建てたものだそうです。

古代より阿蘇山が噴火せず穏やかであることを、神社も寺院も庶民も祈ってきました。
これからもその祈りは続けられることでしょう
阿蘇山の寺院の開祖には2つの説があるようです。
1つは、奈良時代の初期に天竺(インド)から最栄読師という方が日本に来られて、阿蘇山で自ら十一面観音【健磐龍命(タケイワタツノミコト)の本地仏】を造り祀ったという説。
2つ目は、慈恵大師良源(912~985年・第18代天台座主)の弟子筋にあたる最栄という僧侶が阿蘇大宮司に願い出て阿蘇山に住むようになったという説です。
阿蘇山では健磐龍命と十一面観音が神仏習合し、仏教も繁栄しました。

(西巌殿寺所蔵・熊本県立美術館寄託)
山上近くに「三十六坊五十二庵」という規模の坊舎や庵が建っていたといいます。
阿蘇山には衆徒(しゅと)と呼ばれる僧侶、行者(修験者)、そして山伏(やまぶし)の3者が仏教や修験道を通して活躍していたそうです。
衆徒の支配下に行者がいたそうですが、この2者には対立もあり、緊張した関係でもあったようです。
また山伏は衆徒と行者それぞれに属していたそうです。
衆徒・行者・山伏は寺社奉行の支配下にありましたが、寺社奉行は阿蘇家の家臣が務めていました。
衆徒と行者の住まいを坊舎、山伏の住まいを庵と言いますが、それが三十六坊五十二庵あったというわけですから、一大山岳仏教の聖地だったわけですね。
ところが、阿蘇神宮の大宮司家でもある豪族の阿蘇氏が薩摩の島津氏に攻められたため、衆徒らも散り散りになり、阿蘇山の寺院は衰退の一途をたどります。
その後加藤清正が肥後北部を治めるようになると、阿蘇の神社と寺院の復興にとりかかります。
阿蘇山の麓(ふもと)に坊舎や庵が建てられ、その地帯を麓坊中(ふもとぼうちゅう)といいます。
阿蘇山のお寺の宗派としては天台宗になるのですが、行者の人々は真言宗系の修験である当山派(どうざんは)に属するようになり、奈良から熊野への大峯山(おおみねさん)の峰入りにも参加したそうです。
お寺の宗派と修験の系統が別々になっていて成立しているところが面白いですね。
せっかく復興した阿蘇の坊中ですが、明治維新によりその状況が一変します。
新政府は神仏分離と国家神道の推進を図り、また廃藩置県で扶持米(ふちまい)を打ち切られたため、これまで神仏習合で繁栄してきた阿蘇山の寺院は廃寺になりました。
僧侶たちは還俗(げんぞく)したり神官に転身したりしました。
しかしお寺がなくなってしまうと、各寺院で祀られていた仏像等の管理の問題や、葬式をはじめとする法要ができなくなって、困ってしまいます。
そこで山上にあった本堂を麓に移し、麓坊中の中心的存在であった学頭房(がくとうぼう)を西巌殿寺(さいがんでんじ)として仏像等も集め、寺院の存続を図りました。


そして1890年には山上に西巌殿寺の奥の院が建てられました。

しかし残念ながら2001年に不審火により麓の本堂が焼失しました。

(焼失した本堂跡に残る礎石)
本堂跡の敷地の一角にお堂があり、修験道の開祖である役行者や足手荒神などが祀られています。

古来阿蘇では神道のみならず仏教も栄えていたということがとても興味深いですが、現在も西巌殿寺本坊でたくさんの仏様が祀られており、さらに採燈護摩(さいとうごま)も行われ、阿蘇山の山岳仏教の法灯(ほうとう)が受け継がれていることを素晴らしいなあと思います。


また寺領の一画に立派な宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建てられています。
宝篋印塔とは、宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)というお経を納めた塔のことをいいますが、この塔を拝むと罪業消滅・極楽往生のご利益があるといわれています。
玉名出身の豪潮(ごうちょう)という強い法力をもった僧侶が建てたものだそうです。

古代より阿蘇山が噴火せず穏やかであることを、神社も寺院も庶民も祈ってきました。
これからもその祈りは続けられることでしょう

占星術師は古来、哲学者であり、ヒーラーであり、天の通訳でした。
基本的な占星術の知識の理解と、実際にご自分のホロスコープ等を使って、総合的に星を読む実践を積んでいきます☆
マンツーマンでレッスンを行っていきますので、お客様のペースに合わせて進めていくことができます。
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