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Posted by おてもやん at
こんばんは(^_-)-☆

パイドン』(Phaedo)〔プラトン著 岩田靖男訳 岩波文庫〕は、ソクラテスが最期に獄中で若い二人の哲学者(シミアスとケべス)と行った対話を、プラトンが素晴らしい書にしたものです。

ギリシャ哲学というと、難しい印象を受けるかもしれませんが、対話形式で書かれていますので、意外に読みやすいです。

これから何度にもわたって、『パイドン』から引用しながら、ソクラテスの思いをご紹介してきたいと思います。








【 〈P10〉紀元然399年の春、ソクラテスは「国家公認の神々を拝まず、青年を腐敗させる」という罪状で告発され、アテナイの牢獄で刑死し
た。
刑死の日の早朝別れを告げに牢獄に集まった弟子たちと、ソクラテスは日暮れまで魂の不死について深く厳しい哲学的対話を交わしたが、その内容が本対話篇である。
この対話はその場に居合わせたパイドンによりプレイウスの人エケクラテスに伝えられた、という形で対話篇は進行する。


〈P11~15〉エケクラテス  パイドン、あなた自身があの日ソクラテスのお側にいたのですか。あの方が牢獄で毒をあおいだあの日に。それとも、誰か他の人からその話を聞いたのですか。

パイドン 私自身がそこにいました、エケクラテス。

《中略》

エケクラテス  それでは、その死そのもののご様子はどのようでしたか、パイドン。どのようなことが語られ、どのようなことがなされたのですか。そして、あの方に親しい人々のうちで、だれがその場に居合わせたのですか。それとも、だれもその場に居あわせることを役人たちが許さず、あの方は友人からはなれて孤独のうちに息絶えられたのでしょうか。

パイドン いいえ、けっしてそんなことはありません。居あわせた人々はおりました。それも多くの人々が。

エケクラテス  では、そういうことをすべてできるだけ明らかに私たちに知らせてはくださいませんか。もし、いまなにか忙しいご用事がなければ。

《中略》

パイドン  では申しましょう。じつは、その場に居あわせて私は驚くべき感情を味わったのです。というのは、親しい人の死に立ち会っているというのに、私は悲しみの気持に襲われてなかったのです。
あの方はその態度においても言葉においても幸福そうに私には見えたからなのです。ほんとうに、なんと恐れなき高貴なご最期であったことでしょうか。
そこで私はこう思いました。この方ならば、神のご配慮なしにハデスの国へ行くことはないだろうし、またその国へ着いてからも、いやしくもそこにだれか幸福な人がいるとすれば、この方こそがその人であろう、と。
こういうわけで、不幸に立ち会っている者にとっては当然起こってよさそうな悲しみの気持が、私にはほとんど起こらなかったのです。だが、そうだからと言って、私たちは哲学しているのだと思ってもーーーじっさい、そのときの言論は哲学的なものであったのですがーーーそういうときにいつもは感ずる愉しい気持ちも起こりませんでした。
いや、まったく奇妙な感情に私はずっととらえられていたのです。〈中略〉その場に居あわせた人々はみなほとんど同じような有様でした。

《中略》

エケクラテス  さあ、それでは、どのような議論がそこでおこなわれたのか、話してくださいませんか。 】










これからソクラテスと、主にシミアスとケべスの三人による対話が始まります。霊魂不滅や想起説などの話が繰り広げられます。

シリーズでご紹介していきますね(^_-)-☆

いつもStar Angel のブログを読んで下さいまして、ありがとうございます☆
  


Posted by スターエンジェル at 20:59Comments(0)『パイドン』☆ソクラテスとの対話