こんばんは(^.^)/
今日は『パイドン』(プラトン著 岩田靖夫訳 岩波文庫)より死についてのソクラテスの考えをご紹介したいと思います。
尚、この作品はソクラテスが服毒による刑死を控え、獄中で弟子たち(シミアスとケベス)と哲学的対話をするものです。

〖P30~〗
ソクラテス 死とは、魂の肉体からの分離に他ならないのではないか。すなわち、一方では、肉体が魂から分離されてそれ自身となり、他方では、魂が肉体から分離されてそれ自身単独に存在していること、これが死んでいる、ということではないか。死とは、これ以外のなにか他のものでありうるだろうか
シミアス ありえません。まさにそれです。
ソクラテス では、善い人よ、僕の思っていることが君にも賛成できるかどうか、考えてみてくれないか。《中略》いったい、哲学者は、いわゆる快楽を、たとえば、飲食の快楽を、熱心に追求する、と君には思えるかね
シミアス とんでもありません、ソクラテス
ソクラテス では、性の快楽はどうだろう
シミアス 問題外です
ソクラテス では、その他の体の世話についてはどうだ。《中略》たとえば、豪華な衣服や靴の所有とか、その他の体に関する装飾とか、こういうものを哲学する人は尊重すると君には思えるかね、それとも、それらを持つことがどうしても必要でない限りは、それらを軽蔑すると思えるかね
シミアス 本当の哲学者なら軽蔑する、と私には思われます
ソクラテス それでは、先ず、このような事柄においては、哲学者は他の人々とは際立って異なっており、できるだけ魂を肉体との交わりから解放するものであることは、明らかだね
シミアス 明らかです
ソクラテス そして、恐らくは、シミアス、多くの人々にはこう思われることだろう。こういう事柄のなにものをも快いとは思わず、こういう事柄に関わろうともしない者は、生きるに値しないのだ。
シミアス あなたの言われることは、まったく真実です
ソクラテス では、知恵の獲得そのことに関してはどうだ。《中略》魂はいつ真理に触れるのか。なぜなら、肉体と協同してなにかを考察しようと試みれば、その時には、魂は肉体によってすっかり欺かれてしまうのは、明らかだからだ
シミアス あなたの言われることは真実です
ソクラテス したがって、もしも存在するものの何かが魂に明らかになる場所がどこかにあるとすれば、それは思考においてではなかろうか
シミアス そうです
ソクラテス ところで、おそらく、思考がもっとも見事に働くときは、これらの諸感覚のどんなものも、聴覚も、視覚も、なんらかの快楽も魂を悩ますことがなく、魂が、肉体に別れを告げてできるだけ自分自身になり、可能な限り肉体と交わらず接触もせずに、真実在を希求するときである
シミアス その通りです
☆ ★ ☆ ★ ☆
ギリシャの哲学者たちはとてもストイックな感じですね~(^.^)
臨死体験をした方の話にはお花畑など楽園に行った後、肉体に戻ってきたというものがありますね。
他にも左脳が病気で障がいされた方が右脳の世界では他にない幸福感を味わったという話もあります。
左脳は確かに物質的な局面に焦点を当てることが得意なのかもしれません。
そこを離れるとあの世または光の世界と一体になるということが感じやすいのかもしれませんね。
ソクラテスはあの世こそ幸せな世界ということで、死を全く恐れていないわけですが、肉体をもったまま死んだような幸せな状態でいることができれば、それは最高でしょうね。
お釈迦様は生きて悟りを開かれたわけですが、これは肉体を持ちながら涅槃に入った状態ということかもしれません。
魂と肉体、この地上の世界は二元性を免れません。どちらかをとればどちらかを失うということに陥りがちかもしれませんが、魂と肉体のバランスをとっていくということも、私たちの選択肢の重要な一つではないかと思います。
肉体は魂の指令に従うことで私たちが幸せに生きていくのをサポートしてくれるでしょう。
魂が喜ぶことを肉体をもったまま実践していくこと。
本当に楽しいとき、集中している時、真理に気付いた時というのは、肉体や時間といったものをいちいち意識していないかもしれませんね。
そしてまた瞑想というのは肉体の意識から離れることのできる素晴らしい機会ともなると思います。
話はまだ続きますよ♪ 次回、お楽しみに(^_-)-☆
今日は『パイドン』(プラトン著 岩田靖夫訳 岩波文庫)より死についてのソクラテスの考えをご紹介したいと思います。
尚、この作品はソクラテスが服毒による刑死を控え、獄中で弟子たち(シミアスとケベス)と哲学的対話をするものです。

〖P30~〗
ソクラテス 死とは、魂の肉体からの分離に他ならないのではないか。すなわち、一方では、肉体が魂から分離されてそれ自身となり、他方では、魂が肉体から分離されてそれ自身単独に存在していること、これが死んでいる、ということではないか。死とは、これ以外のなにか他のものでありうるだろうか
シミアス ありえません。まさにそれです。
ソクラテス では、善い人よ、僕の思っていることが君にも賛成できるかどうか、考えてみてくれないか。《中略》いったい、哲学者は、いわゆる快楽を、たとえば、飲食の快楽を、熱心に追求する、と君には思えるかね
シミアス とんでもありません、ソクラテス
ソクラテス では、性の快楽はどうだろう
シミアス 問題外です
ソクラテス では、その他の体の世話についてはどうだ。《中略》たとえば、豪華な衣服や靴の所有とか、その他の体に関する装飾とか、こういうものを哲学する人は尊重すると君には思えるかね、それとも、それらを持つことがどうしても必要でない限りは、それらを軽蔑すると思えるかね
シミアス 本当の哲学者なら軽蔑する、と私には思われます
ソクラテス それでは、先ず、このような事柄においては、哲学者は他の人々とは際立って異なっており、できるだけ魂を肉体との交わりから解放するものであることは、明らかだね
シミアス 明らかです
ソクラテス そして、恐らくは、シミアス、多くの人々にはこう思われることだろう。こういう事柄のなにものをも快いとは思わず、こういう事柄に関わろうともしない者は、生きるに値しないのだ。
シミアス あなたの言われることは、まったく真実です
ソクラテス では、知恵の獲得そのことに関してはどうだ。《中略》魂はいつ真理に触れるのか。なぜなら、肉体と協同してなにかを考察しようと試みれば、その時には、魂は肉体によってすっかり欺かれてしまうのは、明らかだからだ
シミアス あなたの言われることは真実です
ソクラテス したがって、もしも存在するものの何かが魂に明らかになる場所がどこかにあるとすれば、それは思考においてではなかろうか
シミアス そうです
ソクラテス ところで、おそらく、思考がもっとも見事に働くときは、これらの諸感覚のどんなものも、聴覚も、視覚も、なんらかの快楽も魂を悩ますことがなく、魂が、肉体に別れを告げてできるだけ自分自身になり、可能な限り肉体と交わらず接触もせずに、真実在を希求するときである
シミアス その通りです
☆ ★ ☆ ★ ☆
ギリシャの哲学者たちはとてもストイックな感じですね~(^.^)
臨死体験をした方の話にはお花畑など楽園に行った後、肉体に戻ってきたというものがありますね。
他にも左脳が病気で障がいされた方が右脳の世界では他にない幸福感を味わったという話もあります。
左脳は確かに物質的な局面に焦点を当てることが得意なのかもしれません。
そこを離れるとあの世または光の世界と一体になるということが感じやすいのかもしれませんね。
ソクラテスはあの世こそ幸せな世界ということで、死を全く恐れていないわけですが、肉体をもったまま死んだような幸せな状態でいることができれば、それは最高でしょうね。
お釈迦様は生きて悟りを開かれたわけですが、これは肉体を持ちながら涅槃に入った状態ということかもしれません。
魂と肉体、この地上の世界は二元性を免れません。どちらかをとればどちらかを失うということに陥りがちかもしれませんが、魂と肉体のバランスをとっていくということも、私たちの選択肢の重要な一つではないかと思います。
肉体は魂の指令に従うことで私たちが幸せに生きていくのをサポートしてくれるでしょう。
魂が喜ぶことを肉体をもったまま実践していくこと。
本当に楽しいとき、集中している時、真理に気付いた時というのは、肉体や時間といったものをいちいち意識していないかもしれませんね。
そしてまた瞑想というのは肉体の意識から離れることのできる素晴らしい機会ともなると思います。
話はまだ続きますよ♪ 次回、お楽しみに(^_-)-☆