『パイドン』(プラトン著 岩田靖夫訳 岩波文庫)より死についてのソクラテスの考えをご紹介したいと思います。
尚、この作品はソクラテスが服毒による刑死を控え、獄中で弟子たち(シミアスとケベス)と哲学的対話をするものです。
《P33~》
ソクラテス では、シミアス、次の点についてはどうだ。われわれは、なにか正義そのものが存在する、と言うのかね、それとも、言わないのかね
シミアス ゼウスにかけて、確かに言います
ソクラテス さらに、また、美や善は
シミアス もちろんです
ソクラテス では、今までに、こういうもののなにかを君は目で見たことがあるか
シミアス けっして、ありません
ソクラテス では、君は、目以外の他の肉体的な感覚によって、それらを把握したことがあるか。〈中略〉これらのもののもっとも真実な姿が肉体を通して見られるであろうか。それとも、こういう事情なのではないか。われわれのうちの誰にもせよ、自分が考察するものごとについて、そのもの自体をもっとも充分にそしてもっとも厳密に思考しようと準備する者が、それぞれのものを知ることにもっとも接近するのではないか
シミアス まったく、その通りです
ソクラテス それでは、このことをもっとも純粋に成し遂げる人は、以下に述べるような人ではなかろうか。その人は、できるだけ思惟そのものによってそれぞれのものに向かい、思惟する働きの中に視覚を付け加えることもなく、他のいかなる感覚を引きずり込んで思考と一緒にすることもなく、純粋な思惟それ自体のみを用いて、存在するもののそれぞれについて純粋なそのもの自体のみを追究しようと努力する人である〈後略〉
シミアス ソクラテス、あなたはなんと見事に真実を語られたことでしょう
ソクラテス 〈前略〉肉体は、それを養うことが避けられないために、無数の厄介をわれわれに背負わせるのだ。さらに、もしもなにかの病がわれわれを襲えば、それはわれわれの真実在の探求を妨害するだろう。肉体は、また、愛欲、欲望、恐怖、あらゆる種類の妄想、数々のたわ言でわれわれを充たし、そのために、諺にも言われているように、われわれは肉体のために、何かを真実にまた本当に考えることがけっしてできないのである。
じっさい、戦争や内乱や争いでさえ、他ならぬ肉体とその欲望が惹起するものではないか。というのは、すべての戦争は財貨の獲得のために起こるのだが、われわれが財貨を獲得せねばならないのは、肉体のため、奴隷となって肉体の世話をしなければならないからである。こうして、これらすべての理由によって、われわれは哲学するゆとりを失うのである。
だが、なによりも悪いことは、仮にわれわれに肉体からの多少の解放が生じ、なにかを考察することへと向かったとしても、探求のさ中でふたたび肉体はいたるところに出現し、騒ぎと混乱をひき起こし、われわれを脅かして正気を失わせる。その結果、われわれは肉体のために真実を見ることができなくなるのだ。
☆★☆★☆
肉体からの解放、思えばソクラテスを始め先人が一心に探究してきたことではないでしょうか。
例えばお釈迦様はインドの一国の王子として生まれ、裕福な環境で育ったわけですが、やがてその暮らしを捨てて出家し、道を探究し、悟りを得て人々に説いていかれたわけですね。
また先日、アッシジの聖フランチェスコについて描かれた映画「ブラザー・サン シスター・ムーン(Brother Sun Sister Moon)」を観たのですが、聖フランチェスコも裕福な家庭に生まれたんですね。しかし戦争から戻ってきた後、自然の美しさに魅了されるようになり、また人々が苦しい生活に耐えている姿をみて、物質、富の一人占めや権力などは神の御意志ではないと悟り家を出て自分の信じるところへと探究の旅に出ました。
なんだかお釈迦様と似てらっしゃいますね!
全てを捨てて、という勇気はなかなか持てませんが、真実を探求すること、神の御意志、愛を探究するためには物質主義的なものから敢えて遠ざかることが必要だったのかもしれませんね。
お釈迦様や聖フランチェスコ、そしてソクラテスといった偉大な先人の生き方を通して私たちは、魂を大切にすること、肉体にとらわれないこと、真実を探求することを教えてもらっていると思います。
しかし考えてみれば、我々の本来の姿である魂を封じ込めてしまいかねない肉体というものを、わざわざ身に着けて生きていこうと思い、この地球に転生してきたのが私たちですね。
魂のままならば不自由ないのに、私たちは肉体を着ています。
う~ん、なんと思い切った冒険でしょうか!
肉体を身に着けながらも、魂の存在としてのあり方を探究していくことを私たちは選んだのでしょう。
決してソクラテスやお釈迦様、聖フランチェスコは特別な人間なので真似することは到底できない、ということではないと思います。
素晴らしい例を示して下さった方々ではないでしょうか。そして私たちは先人の知恵を活かして生きていくか、それともそうしないかを日々選択することができますね。
次回はこの続きから始まります。どうぞお楽しみに(^_-)-☆
尚、この作品はソクラテスが服毒による刑死を控え、獄中で弟子たち(シミアスとケベス)と哲学的対話をするものです。

《P33~》
ソクラテス では、シミアス、次の点についてはどうだ。われわれは、なにか正義そのものが存在する、と言うのかね、それとも、言わないのかね
シミアス ゼウスにかけて、確かに言います
ソクラテス さらに、また、美や善は
シミアス もちろんです
ソクラテス では、今までに、こういうもののなにかを君は目で見たことがあるか
シミアス けっして、ありません
ソクラテス では、君は、目以外の他の肉体的な感覚によって、それらを把握したことがあるか。〈中略〉これらのもののもっとも真実な姿が肉体を通して見られるであろうか。それとも、こういう事情なのではないか。われわれのうちの誰にもせよ、自分が考察するものごとについて、そのもの自体をもっとも充分にそしてもっとも厳密に思考しようと準備する者が、それぞれのものを知ることにもっとも接近するのではないか
シミアス まったく、その通りです
ソクラテス それでは、このことをもっとも純粋に成し遂げる人は、以下に述べるような人ではなかろうか。その人は、できるだけ思惟そのものによってそれぞれのものに向かい、思惟する働きの中に視覚を付け加えることもなく、他のいかなる感覚を引きずり込んで思考と一緒にすることもなく、純粋な思惟それ自体のみを用いて、存在するもののそれぞれについて純粋なそのもの自体のみを追究しようと努力する人である〈後略〉
シミアス ソクラテス、あなたはなんと見事に真実を語られたことでしょう
ソクラテス 〈前略〉肉体は、それを養うことが避けられないために、無数の厄介をわれわれに背負わせるのだ。さらに、もしもなにかの病がわれわれを襲えば、それはわれわれの真実在の探求を妨害するだろう。肉体は、また、愛欲、欲望、恐怖、あらゆる種類の妄想、数々のたわ言でわれわれを充たし、そのために、諺にも言われているように、われわれは肉体のために、何かを真実にまた本当に考えることがけっしてできないのである。
じっさい、戦争や内乱や争いでさえ、他ならぬ肉体とその欲望が惹起するものではないか。というのは、すべての戦争は財貨の獲得のために起こるのだが、われわれが財貨を獲得せねばならないのは、肉体のため、奴隷となって肉体の世話をしなければならないからである。こうして、これらすべての理由によって、われわれは哲学するゆとりを失うのである。
だが、なによりも悪いことは、仮にわれわれに肉体からの多少の解放が生じ、なにかを考察することへと向かったとしても、探求のさ中でふたたび肉体はいたるところに出現し、騒ぎと混乱をひき起こし、われわれを脅かして正気を失わせる。その結果、われわれは肉体のために真実を見ることができなくなるのだ。
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肉体からの解放、思えばソクラテスを始め先人が一心に探究してきたことではないでしょうか。
例えばお釈迦様はインドの一国の王子として生まれ、裕福な環境で育ったわけですが、やがてその暮らしを捨てて出家し、道を探究し、悟りを得て人々に説いていかれたわけですね。
また先日、アッシジの聖フランチェスコについて描かれた映画「ブラザー・サン シスター・ムーン(Brother Sun Sister Moon)」を観たのですが、聖フランチェスコも裕福な家庭に生まれたんですね。しかし戦争から戻ってきた後、自然の美しさに魅了されるようになり、また人々が苦しい生活に耐えている姿をみて、物質、富の一人占めや権力などは神の御意志ではないと悟り家を出て自分の信じるところへと探究の旅に出ました。
なんだかお釈迦様と似てらっしゃいますね!
全てを捨てて、という勇気はなかなか持てませんが、真実を探求すること、神の御意志、愛を探究するためには物質主義的なものから敢えて遠ざかることが必要だったのかもしれませんね。
お釈迦様や聖フランチェスコ、そしてソクラテスといった偉大な先人の生き方を通して私たちは、魂を大切にすること、肉体にとらわれないこと、真実を探求することを教えてもらっていると思います。
しかし考えてみれば、我々の本来の姿である魂を封じ込めてしまいかねない肉体というものを、わざわざ身に着けて生きていこうと思い、この地球に転生してきたのが私たちですね。
魂のままならば不自由ないのに、私たちは肉体を着ています。
う~ん、なんと思い切った冒険でしょうか!
肉体を身に着けながらも、魂の存在としてのあり方を探究していくことを私たちは選んだのでしょう。
決してソクラテスやお釈迦様、聖フランチェスコは特別な人間なので真似することは到底できない、ということではないと思います。
素晴らしい例を示して下さった方々ではないでしょうか。そして私たちは先人の知恵を活かして生きていくか、それともそうしないかを日々選択することができますね。
次回はこの続きから始まります。どうぞお楽しみに(^_-)-☆