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Posted by おてもやん at
みなさんこんばんはにっこり
段々と寒くなってきましたね。


さて、空海はどのようにして高野山に辿りついたのでしょうか。
言い伝えでは、空海が唐に渡って密教の奥義を恵果阿闍梨(けいかあじゃり)から授かり日本に帰る際に、唐から日本へ向けて密教の法具である「三鈷杵(さんこしょ)」を投げられたそうです。
そしてその三鈷杵が高野山の松の木にひっかかっていたと言われます。
この松は「三鈷の松」と呼ばれ、現在も壇上伽藍に残っています。




また、その三鈷杵がどこに飛んで行ったかを空海が探して各地を巡っていた時に、2匹の犬を連れた狩人姿の狩場明神(かりばみょうじん)と出会い、その犬たちを使って三鈷杵の引っかかっている松の木まで案内してくれたとも言われています。


空海がこうして高野山に辿りついた後、狩場明神の母神であられる丹生都比売(にうつひめ)に会われます。
丹生都比売とその御子神である狩場明神は共に高野山の地主神でした。
そして丹生都比売が高野山を修行道場のために譲って下さったと伝えられています。


そこで僧侶の方が教えて下さったのが、空海が高野山にまず一番に建てたのは、丹生都比売(にうつひめ)や狩場明神を祀る「御社(みやしろ)」だったということです。
空海にとって、密教の修行のための寺院を建てることがもちろん大きな目的だったでしょうが、寺院よりも先に、高野山に導いて下さり、そして譲って下さった地主神を祀る社を建立したということになりますね。


ここが空海の素晴らしいところだなあと私は思いました。
地主神に感謝して、敬意を表し、お祀りする。
その後で、密教の伽藍を建てていく。
やはりこの順序が大事なのだと思います。


私たち人類の歴史はある意味、侵略や征服の歴史ということが言えるかもしれませんが、空海の考え方や行動というのは、それらとは正反対のものですね。

もともといらっしゃる土地の神様に、ありがたくその土地を使わせて頂くという姿勢。
神道、仏教の垣根を軽々と超えて地主神をお祀りするという根源的な信仰心とでもいいましょうか、そういうところが密教のすべてを包み込むという特徴とも重なりますし、その土地と融和することで、共に末永く発展していくことができるということではないでしょうか。

現代も世界中で争いが起きていますが、この高野山開創のエピソードから、空海が人類の行くべき方向を私たちに示してくれているように思います。


僧侶の方が仰るには、今も高野山のお坊さんは神社や神棚をよくお参りされるそうです。本当によくされるそうです。
高野山では神仏習合を超えて、神仏融合が起きていて、それが自然な姿となっているんですね。
日本はレムリア以来の調和の精神を持ち合わせた国だと思います。
その素晴らしい一例が、高野山の姿ではないでしょうか。



次は大伽藍、特に根本大塔を巡っていきましょう。


  


Posted by スターエンジェル at 22:43Comments(0)高野山探究の旅